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寝ながらシュタイナー『自由の哲学』(8/9)

Ⅵ 補足  ー  人間存在の二重性、認識の根底、個と認識・愛・自由
本稿では、これまでの考察でとりあげられなかったいくつかの問題について補足します。
1 人間存在の二重性・二段階性
自由の問題が、人間のさまざまな二重性・二段階性にかかわっていることはこれまでにも見てきました。
例えば、思考と生体機構の二重性、認識と意志の二段階性にかかわる身体・意識での二重性。また、動機の身体的要因・起動力と非身体的要因・動因との最高段階での重なりによる二重性。さらに、認識における、人間と世界の一体性と対峙性という二重性、等々です。
以下では、まだとりあげていない人間存在の二重性・二段階性について考察します。
⑴ 人間の魂の営みに関する二つの根本問題
1918年「新版のための序文」冒頭で、シュタイナーは、「人間の魂の営みに関する二つの根本問題」(1:7)として次の二つを提示します。
① 体験や学問によって出会うすべての(認識の)支えとなる人間本性(構成体)は観照されうるか。
② 意志する存在としての人間は、自らを自由とみなすことができるか。
シュタイナーは、②の問い(第二部)の答えは魂の経験として捉えられるのであり、その内容は、①の問い(第一部)に対してとる立場(観方)にかかっているとして、次のように言います。

他のあらゆる認識にとっての軸となりうる、人間本性(構成体)に対する一つの観方がありうる…この観方からは、自由な意志を展開しうる特定の魂の領域が見出されれば、それだけで意志の自由という理念が十分に正当であることを示す(1:8)

『自由の哲学』森章吾訳 イザラ書房

シュタイナーは、①の人間本性(構成体)は観照され(認められ)うるとします。それは、「自由な意志を展開しうる魂の領域」であり、そこにおいて②人間は自らを自由とみなすことができるとするのです。
 人間は、「普遍的な認識」と「普遍の個的な体験」の間を行き来する
この二つの根本問題は、次の事情とも関係しています。

思考によって獲得される理念と倫理的営みの中で実現される理念は同種である。…
…認識において人間は、彼を取り囲む世界の中で、すべての人間に共通するものに入り込んで活動している。…しかし、…自らの意志行為のためにこの理念世界から直観内容を借りてくるときには、認識の際…とまったく同じ活動によって、この理念世界の一部分を個体化している…
人間の中で直観的に捉えられるものとは、一方に普遍的に妥当する認識を置き、もう一方にこの普遍の個的な体験を置き、その両極間を振り子のように行き来する…人間の特有の性質である(1:181)

『自由の哲学』森章吾訳 イザラ書房

前者(認識)の現実が見えないと、思考が(普遍的でなく)主観的に見え、後者(意志・倫理)の現実が見えないと、思考内活動の個的な営みが失われます。
思考自体を体験することは可能であり、認識の普遍性とその個的体験における倫理を行き来することで、自由は実現されるのです。
⑶ 知覚世界での不自由と内なる世界における自由な精神の実現

人間は、知覚世界では不自由であり、自らの内においては自由な精神を実現しうる(1:178)

『自由の哲学』森章吾訳 イザラ書房

 「一元論」においては、社会規律も人間の考えです。それは、自らの内においてまったく自由な人間が生み出したものなのです。

2 認識の根底に何を置くかによって認識の限界は決まる
⑴ シュタイナーの「一元論(自由の哲学)」
 シュタイナーの「一元論」について再掲します。
例えば、あるチューリップ個体において、その葉っぱや花びらの形や色や匂いなどの五感で知覚されるものと、チューリップの概念とは分かちがたく結びついています。
人間は、それを二つのルート(観察と思考、または知覚と概念)によって(二元的に)意識の場にもたらし、それを表象として一つに統合(一元化)し、「チューリップそのもの」の認識を得ます。その際、表象は(〈私〉の意識という)主観に現れますが、その内容は概念・理念世界に由来するもので客観性(普遍性)をもっています。
認識者の立ち位置や生理的条件等によるその都度の限界はありますが、それらは常に修正され得るので、「一元論」には、認識の限界は生じ得ません
⑵ 認識の根底に何を置くか
認識の限界は、認識の根底に何を置くかという問題と関連しています。
『自由の哲学』第一部を通して、認識の根底知覚通常の思考(知覚と結びついている)を置くことができないと理解されます。第二部第8章では、それに加えて、感情意志も置くことができないと理解されます。
感情も意志も知覚と同様に思考によって捉えられてはじめて、本来の意味をもつものです。感情は概念を生き生きとさせ、人間を個人として生かしますが、個人にとどまらせます。(内なる)意志も、行為とならないかぎりは、同様です。
この当人限定の意味をもつということが、私たちが感情や(内なる)意志を思考よりも身近に感じることにつながります。

意志や感情は、その名残(の追体験)ですら魂を温める。(これに対して)思考は名残(の追体験)において、簡単に冷めてしまう。魂の営みを干からびさせる…(1:142)

『自由の哲学』森章吾訳 イザラ書房

思考の名残(追体験)、あるいは通常の思考は、〈本来の思考〉の影にたとえられます。
〈本来の思考〉は、シュタイナーによれば「精神的な愛の力によって、温かく、世界事象に浸った現実(リアル)」です。〈本来の思考〉は、唯一、認識の根底におくことができるものなのです。

3 個と認識・愛・自由
⑴ 個における倫理と愛
倫理的なものは(人)において捉えられるとするのが倫理的個体主義です
ある具体的状況において理念的(倫理的)直観内容を行為へ移す際、ふさわしい直観を完全に個的に見つけ出すことでその行為の方向は定まります。
倫理的なものはにおいてのみ捉えられ実現されますが、において実現されるものはと結びつきます。倫理原則はと結びついているのです。 

倫理原則は対象に対する愛と結びついているし、その対象を私は私の行為によって実現しようとしている…行為の理念を把握したなら、私は即座にそれを実行する。そうすることによってのみ、それは私の行為なのである…私の内にある対象への愛に従うときにのみ、私は行為者自身なのである。…私は自身の内に行為の根拠、つまり行為への愛を見出し、行為における外的原則を認めない。…それを愛するから遂行する。…特別な個である私が、どのように私自身を意志にまで導いたかを見るがゆえに行為する。…行為への愛が私を導くのである (1:160)

『自由の哲学』森章吾訳 イザラ書房

私たちの目標は、「純粋に直観把握した倫理目標の実現(動因の最高段階)」であり、私たちがどこまでその目標を達成したかは、理念的直観の内容の世界に向かってどれだけ自らを高める努力(身体性・感覚知覚の乗り越え(起動力の最高段階))をしたかにかっているのです。
⑵ 個と思考・理念

私の内なる個とは、…この生体内に輝き出る唯一無二なる理念世界なのである。…衝動、徳望、感情の中にあって、それとは異質の理念を発動できることにこそ、私の個は立脚している。思考によって、つまり私の内に息づく理念をアクティヴに把握することで、私は私自身を他者から区別する。…行為の根拠が私の個的存在の理念的な部分に由来するとき、その行為は自由な行為と感じられる(1:162‐163)

『自由の哲学』森章吾訳 イザラ書房

理念の発動に依っています。思考によって内なる理念世界から理念をアクティヴに把握(直観)することによって、私たちはになるのです。
そして、直観把握した内容が行為へ移されるとき、それが個人倫理の内実となるのです。
⑶ 個において「認識」「愛」「自由」が同期する
最高の動機である直観的思考(理念的直観は真の認識にかかわるものです。この直観的思考から意志行為が発動するとき、人間は、行為の対象への、そして、自らの行為へのを感じます。即座に、その行為を自らの行為だと捉え、そこに自由を感じます。自分が為すべきことへのを感じながら(人として)行う行為が自由なのです。
この段階で、(人)において、思考領域における認識意識(感情)領域における、そして意志行為領域における自由が同期しているのです。

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