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金島書を読んでみた「十社」
「十社」をざっくりまとめると、
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前半が出来事、
後半が、一曲を奉納したその唱え言。
本地垂迹の考えにのった神と人の蜜月のような関係、それによって増した神の力が日本国へ祝福を与える
そんで、なんちゃって訳
(前半)さて、戦さがおこって国中が不安におののいている、
私が流された場所でも戦闘があったので泉というところに移り住んだ。
秋過ぎ冬も暮れ、永享7年の春になった。
ここには佐渡ヶ島の十社の神がおわします。神をうやまい信じて、一曲を奉納する
(後半)そもそも人はこの世界の神の道具
神は、神主のご奉仕の仕方次第で威光を増し、身の衰えを最上の悟りで回復し、
人等が何事もなく長生きできるよう守るとお誓いくださる
ほんとうにありがたい御ありさまです
神のみ心のままに、歩みを運ぶ宮めぐり
誠に、仏が光を和らげ塵の様な人の世に
神の御姿で降りてくださるのが成仏の可能性を得る始め、
釈迦が人等を救うため八つの相を示して下さったのは
人等を救うことのおわりであるに違いない。
まことに、日本国という淨い垣根のなかにこそ、
ご治世は輝き、ずっと国が豊かで、ずっと民等が裕福に栄えて、宮中はずっと春の如く、
そして十の社は明るく澄んでおはします
「神のまにまに詣で来て、歩みを運ぶ宮めぐり」
この言葉を打ち返し唱え,
舞いはじめ、舞ううちに時間と空間が広がる。
今、世阿彌唯ひとり舞を奉じる佐渡ヶ島の泉から、
例えば熱田、例えば伊勢、例えば、熊野。
嘗ても、あの時、此時も、
人等が神のもとに群れをなして、祈りを奉じようと蟻の如く参詣する幻。
そして神力に満ち満ちた神に、護られ寿がれた、輝かしい人の世界、の幻。
世阿弥は神を敬い信じて、一曲を奉納すると言う。
シャーマンは、自分の身を開け渡す。
この差異がありながら、
現代のお能のお舞台を拝見していても
役者のからだは、その曲の世界に明け渡されている様に見えることがある
そこに不思議か起こる様に見える