見出し画像

「死」とは何か

イェール大学で23年連続の人気講義がついに日本上陸!

「人は必ず死ぬ。だからこそ、どう生きるべきか」

死と真摯に向き合い、人生の真の意味を問いかける、世界的名著がついに日本上陸!

今すぐ本書を読んで、あなたの人生をより深く、より意味のあるものに変えてください!



要約

大半の人は、生と死の本質に関する、ある一連の信念のすべてを、あるいはほとんどすべてを受け容れている。
すなわち、私たちには魂がある、何か身体を超越するものがあると信じている。
そして魂の存在を前提として、私たちには永遠に生き続ける可能性があると信じている。
というのも、死は一巻の終わりであるという考えにはどうしても耐えられないからだ。
それはあまりにも恐ろし過ぎる。
人生は信じ難いほど素晴らしいから、どんな状況に置かれていても命が果てるのを心待ちにするのは筋が通らない。
死なずに済めばどんなに良いか。
だから、自殺は決して理にかなった判断にはなりえないと考える訳だ。

私はこれを全て否定する。
魂など存在しない。
私たちは機械にすぎない。
もちろん、ただのありきたりの機械ではない。
私たちは驚くべき機械だ。
愛したり、夢を抱いたり、創造したりする能力があり、計画を立ててそれを他者と共有できる機械だ。
私たちは人格を持った人間だ。
だが、それでも機械にすぎない。
そして機械は壊れてしまえばもうお終いだ。
死は私たちには理解しえない大きな謎ではない。

不死について論じたときに主張したように、人生が価値あるものをもう提供できなくなるまで生きる力が私たちにあったほうが、間違いなく望ましいだろう。
少しでも長い人生を送ることが本人にとって全体として良い限り、死は悪い。
そして少なくとも多くの人にとって、死は早く訪れすぎる。
なぜなら結局、病気にならなかったら、自動車にはねられなかったら、私はあと10年、あるいは30年生きたはずだ。
そして、その年月は私にとって良いものだっただろう。
だがそうは言っても、不死が良いということには絶対にならない。
不死が良いと言う人は、どんな種類の人生を想像すれば、そういう人生を永遠に送るなら良いと言えるだろう?
単に10年だけではなく、次の100年だけでもなく、次の1万年でも1億年でもない。
永遠というのは、永遠に続く。
不死が悪いと言うのは、私たちが今死ぬような年齢で死ぬのは良いことだと言うのとは違う。
死は人生における良いことを剥奪するから悪いということだ。
だから、私たちはあまりに早く死に過ぎると、一貫して信じられることに変わりはない。
実際には、不死は災いであり、恵みではない。

そんなわけで、死について考えるとき、死を深遠な謎と見なし、恐ろしくて面と向かえず、圧倒的でゾッとするものと捉えるのは適切ではない。
適切ではないどころか、死に対する比類なく合理的な応答にはほど遠い。
死とは私の終わりだ。
だが、それが正しければ、死ぬことがどうして私にとって悪いということがありうるのか?
何しろ、いったん死んでしまえば、私はもう存在しない。
死んでしまって私が存在しないのなら、何一つ私にとって悪いはずがないというのは、妥当なことではないだろうか。
そう思うに、死を恐れるのは不適切な対応だ。

それに、私たちがあまりにも早く死んでしまう可能が高いことは確かに悲しみうるが、私たちがこれまで生きてきたのはまさに信じられないほど幸運であることに気づけば、その悲しみの感情は相殺されてしかるべきかもしれない。
同時に、生きてこられたのは幸運だったと気づいても、生き続けるほうが必ず幸せだということにはならない。
残念ながら、生きている方が良いとは、もう言えなくなる時を迎える人もいる。
そしてそうなったら、人生は何が何でも、いかなる状況下でもしがみついていなければならないものだとは言えない。
手放すときがくるかもしれない。


この記事が参加している募集

最後までお読みいただきありがとうございました。 サポートも嬉しいですが「スキ」ボタンもとても励みになります!