紫式部
最近、NHKの大河ドラマ「光る君へ」を視聴していて、少し気になる発見があった。それは主人公まひろが、少女時代に遭遇した母の死を思い出し、泣きながら悲嘆するシーンだ。この吉高由里子さん演じるまひろこそ紫式部であり、彼女の熱演も相まって、この偉大な女流作家に抱いていた人物像が、今更ながらに深まった気がする。
ここでまひろは、殺害された母の悲劇に、痛切な自責の念を感じており、もし仮にあの日あの時、自分が騎乗の殺害者に対し障害物のようにぶつからなければ、母の死は起きなかったのにと、自らに罪業を被せてしまっているのだ。無論、母を殺したのは少女のまひろと接触し、落馬したことに激怒して凶行に及ぶ藤原道兼である。それでもまひろはこの凶事に罪悪感をずっと抱き続けている。まるで忘れることを拒絶するかの如く。
もちろん「光る君へ」は平安時代を舞台にしたドラマであり、藤原道兼による殺人事件は恐らく脚色であろう。しかし紫式部が自らの過失を重く受け止めている姿には、彼女がまさしくそのタイプの人間であったと納得させる何かがあった。そしてその何かとは優れた物語を創作できる資質や才能だと思われる。まひろはこのドラマの別の回で、いろんな人の気持ちになれるから、手紙の代筆をする仕事が好きなのだとも述べており、このエピソードもまた未来に大作家となる片鱗の現れであろう。
紫式部の「源氏物語」は世界中で読まれている不朽の名作であり、日本が世界に誇るべき芸術作品のベスト5には余裕で入るはずだ。時折、この「源氏物語」に関し考察することがある。それは古えの日本社会を舞台としていながら、さして地理的または歴史的な情報を把握せずとも、日本以外の国々の読者がその物語の中へ自然に入って行けることだ。
これは古代から日本列島へ多大な影響を及ぼし続けた中華文明圏の人々、つまり中国大陸や朝鮮半島、東南アジア、それに中央アジアの読者ならば、わりと日本人に近い感覚で物語を読み進めれるのかもしれない。しかしそれ以外の多くの文明圏にも「源氏物語」の読者が数多く存在することを考えると、やはりそこには普遍的な魅力が満ち溢れているからこそであろう。
そしてそれは私たち日本人も、総じて世界文学全集に収録された偉大な作家の作品と出会った時、あまり時代考証などの準備をせずとも、物語世界を堪能できてしまうことと同次元の話だ。たとえば個人的な文学体験になってしまうが、ロシアのドフトエフスキーの名作「罪と罰」を初めて読んだ時、十代後半の私にとってロシアに関する予備知識は乏し過ぎたはずだが、にも関わらずその読後感は素晴らしかった。これは近代と現代、ロシアと日本という時空を無効化するほどに、作者ドフトエフスキーの視点が透徹しており、またその主題が人間社会の解決されるべき問題点に肉薄しているからだ。つまり酷い格差や、非暴力よりも暴力が、優先どころか肯定さえされてしまう絶望的現実に対し、読者の良心を呼び覚ますべく警鐘を鳴らしている。
恐らく紫式部もドフトエフスキーと同様に、そのような作家なのだ。この大河ドラマは、「源氏物語」そのものが映像化されているわけではない。しかし平安時代の人間社会を、今後も身分の上下関係なく全般的に描写していくと予想される。またその意味でこの「光る君へ」は「源氏物語」の第三部に近いドラマになるのではないか。「源氏物語」は三部作で構成されているが、第三部は第一部と第二部で主に舞台となった京の都よりも、その周縁の地方をメインとし、それに付随して東国も描かれていた。
無論、東国の話は少ないのだが、平安時代以前から古代の日本列島において奥州も含めた東国一円が、朝廷からの軍事侵攻に晒されていた惨状を想起させる。そしてその歴史的事実は紫式部とも無縁ではなかった。彼女の生涯が、まつろわぬ民と蔑視された奥州や東国を、天皇を頂点とした藤原氏の摂関体制が支配下に置いた時期と重なっているからだ。この為、動乱期ではなかったにせよ、地方長官の受領が統治する東国では過酷な暴力支配が横行していたであろうし、征圧された人々の強制移住や重労働も想定できる。そこは「源氏物語」の第三部においても、不吉にまた微妙に伝わってくる。
ここまでを踏まえると、阿弥陀仏に救済を求める浄土思想を受容し、古代中国の司馬遷が書いた「史記」にも精通していた紫式部にとって、戦乱と搾取が横行する人間の歴史は、拒絶したくなるほどに耐え難い現世であった可能性がある。「光る君へ」におけるまひろの母の死は、何の罪もない生命が断たれてしまう不条理であり、これは残念ながら現代とて例外ではない。人類が20世紀に2度の世界大戦を経験し、巨大な生き地獄に遭遇していながら、未だに地球上から戦禍が消えていないのはその証拠だ。また身分の高い者が低い者の命を虫ケラのように軽視し、その抹殺も当然だという状況も、このドラマの平安時代に限ったことではない。そしてきっと紫式部はそうした巨悪や愚行を容認できない性分なのだ。
「光る君へ」のドラマでは、実の母の殺害に遭ってしまうわけだが、この女流作家は実人生において不条理な死と直面した経験が、意外と多かったのかもしれないし、その際に信心深い彼女は救いようの無い気持ちを味わう羽目になったであろう。たとえば他者を虫ケラ同然に軽視するという視点自体が、そもそも仏教本来の全ての生命は平等に尊重されるべきだという価値基準には反している。つまり人も虫も生命の重さは同じということだ。その認識を持てば、身分の高い人間が身分の低い人間の命を軽んじることはない。そして紫式部は宮仕えをする官の貴族の一員ではあっても、民の境遇に同情し、その把握が難しい実態さえ想像でカバーしようとする優しさがあったと思われる。
NHKの大河ドラマは今年で通算63作目に当たるが、平安時代を素材として扱った作品は数多くあれど、源氏と平家の栄枯盛衰が主流で、紫式部と藤原道長が登場するのは今回が初めてである。現時点では全ての回を見忘れることなく視聴しているが、現代社会が合せ鏡のようにして反映されている点は興味深い。歴史を素材としたドラマでも、史実に必ずしも忠実である必要はないからだ。ただし藤原道長を美化する方向は避けるべきであろう。道長は関白にこそ就任しなかったが、摂政や太政大臣として自らの権勢を盤石にした独裁者であった。また政権運営にも積極的で法整備や社会政策にも熱心に取り組んでいる。しかしそれが善政であったかどうかまでは定かではない。
宮仕えをしていた紫式部は、時の権力者藤原道長の娘の家庭教師としても従事している。また「源氏物語」が完成するまで、特権のようにして第一読者であったのは、藤原道長だ。つまり紫式部は政権の中枢に近い場所にいた。そして彼女の有名な手記、「紫式部日記」からは公私の狭間での葛藤や苦悩が垣間見える。そこにはやはり「源氏物語」の作者らしい現実よりも理想に傾斜した心情が感じられる。
恐らく紫式部は、阿弥陀仏の本願によって来世に人々が救済されるとしても、穢れた酷い現世がそのまま放置されている状態には納得できなかったのだ。平安時代において末法思想が流布していたのは事実で、釈迦の教えが衰えて世が乱れるという歴史観は、当時の支配層に共有されていた。しかしだからといって、民が重税で搾取され、税収でその恩恵を受ける官が汚職や利権で腐敗する構図は真に愚かしい。しかもこの悲嘆すべき構図は、民主主義の法治国家である現代日本の社会にも当て嵌まることだ。この辺り「光る君へ」には、主人公まひろの問題意識も絡め、今の世界が物語へ真摯に反映されていく展開を期待したい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?