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「文学」について考えた。

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こちら、決して「文学論」でないことを先に断っておきます。
あくまでも「文学ってなんだろう?」と考える機会があった、ということで。

緊急事態宣言も明けて久しいですが、当時「家呑み」「Zoom飲み会」なるものが流行ってましたよね。あれっていまどうなってるんでしょう。
ぼくも誘われるがままに参加したZoom飲み会がありました。遠方に住んでいたり子育て真っ最中だったりで普段は簡単に会えない方々と画面を通して会える機会という意味ではとてもよい機会だったんじゃないかと思います。画面越しの対話はどれだけ経験を積んでも苦手ではありますけど。

そのZoom飲み会、近況報告が主だったりするわけですが、やはりご時勢がご時勢、コロナウィルスとはいったい何者なのか?なんていう話に展開するわけですよね。その集まりの中に医者がいれば彼に質問が集中するのも当然の成り行きですが、ぼくが興味をもって皆に投げかけた質問が「カミュの『ペスト』って読んだ?」ってやつでした。

長いStayHome期間中、SNSでは「BookCoverChallenge」なるものが流行っていました。一週間毎日、本の表紙だけを投稿して、読書の啓発をする、という。ぼくのところにも番が回ってくること2回。計14冊の本を紹介しました。もちろん他の方々の本紹介も拝見して、その中で目立ったのが、件の『ペスト』でした。感染症をテーマにした本といえば『ペスト』ってことなのでしょうけど、恥ずかしながらぼくはこれを読んだことがなかった。フランス文学にあまり興味がなかった、というのが一番ですけど、自分に興味のない分野の本を読む余裕がなかったというのもあり、ちょうどそのZoom飲み会に文学を嗜む輩が集まっていたので「あ、ここで内容を聞いてしまえ」と思った次第。

しかしながら、ぼくが期待した返答はひとつもなし。むしろ「自分で読め」ですって。冷たい。みんな実は読んでないんじゃないの?

というわけで、買って読みましたとも…9月ごろに。あのZoom飲みで「自分で読め」って言われてから4か月も経って。それほどに気の重い読書だったんですよ…。

さてその『ペスト』の読後感。ここで「文学ってなんだろう?」という疑問が先立ってしまいました。

『ペスト』はノーベル文学賞作家、カミュの代表作のひとつですが、彼はこの小説で「不条理」について書きたかったんでしょうね。人類の力は自然の前には無力である、と。ルポルタージュのように書かれていますが、実際にはフィクションであるとのこと。

ペストの症状が出てしまった少年の件だったり、その描写の詳しさ。繊細さ。感染症に関わる医師たちの決して解決しない苦悩。ノンフィクション以上にリアリティが強調されてしまっているあたりに若干のうさん臭さを感じつつ、彼が描きたかった「不条理」とは自然、つまり神の創造に対しての無力さだとは思うのですが、どうもそれを感じることができない。そこがテーマなんだよと自分に言い聞かせて読み進めるも、どうもテキストが情報としてしか入ってこない。感情に達するところにまで行き届かない感じ。

『ペスト』をこき下ろしたいわけではありません。実はこの感覚、翻訳された外国文学を読むとどうしてもぬぐい切れない歯がゆい感覚なのです。翻訳者が誰であっても。

実はぼく自身、文学士を取得しており、専攻も一応「イギリス近代詩」なのです。英語が好きだったわけでもないのですが、英語を使う仕事、とくに文章に関わる仕事ができたらいいな、という思い、それと理系の学問がまったく自分の興味関心につながってこなかった、という思いとで。

英文学科の学生の誰もが英語が得意かというとそんなことは全くなくて、日本語並みに英文をスラスラ読める学生というのはそう居ません。たぶん。少なくとも自分の周囲には見当たらなかった。その中で教授たちは、これまで読んだことのない分量の書物を課題に出してくるわけですよ。日本語でも拒絶するようなものを、英語で?
まぁそんな課題をこなせると思っていなかった(今思えばなんともったいないことか)大学生のぼくらは、必死になって和訳された本を図書館等で探し当て、いち早く発掘した子が迷える子羊たちに(コピーして)和訳を配り歩くのが常でした。もはや英語を読んでおりません。

でも、学問がそれなりに極まってくると、翻訳本にばかり頼っていられなくなります。そもそも誰かの翻訳って「フィルター」みたいなもので、その翻訳家の方の意思やら育成環境やらが多かれ少なかれその訳文の中に入ってしまうと思うんですよね。
ぼくも自分がある詩人を専攻に選んだきっかけは、翻訳されたその詩を読んで「いやいや、こんなことが言いたかったわけじゃなかろう…」と疑問を持ったことでしたから。ある意味で学問ぽいモチベーションですけどね。

文学を語るのに翻訳されたものを題材にするのはとても厳しい。
そんなことを、『ペスト』を読んだときに思い出したのですね。カミュはノーベル文学賞を受賞したし『ペスト』も世界的な評価を得ている。そのこと自体にとやかく言うつもりはありませんけど、果たして世の文学はすべて、上述の「フィルター」を通さずに評価されたものなのでしょうか。カミュのフランス語文体は、カミュを評価しているすべての人が理解した上で評価されたものなのでしょうか。異言語を内省して生きる方々は、何をどう読んで文学を評価しているのでしょうか。
ぼくはそこを知りたくて英語を勉強したわけですし、いまはロシア文学を理解したくてロシア語の勉強も始めました。死ぬまでにはロシア文学を原文で読めるようになりたい、という一心で。

翻って、ぼくの読書はその後もまだまだ続いているわけですが、その最中、衝撃的な一作に出合いました。

西加奈子『漁港の肉子ちゃん』。

西加奈子と言えば、『サラバ!』で直木賞を受賞されていて、『きいろいゾウ』や『さくら』も有名ですよね。
まぁその、「西加奈子調」という文体ができてもいいくらいの言い回し、「ここでこのことばを使うかー!」と彼女の文を読むたびに感心するわけですが、この『漁港の…』はタイトルからして西加奈子が全開なわけですよ。こんなダサいタイトル、売る気あります…?って感じがとくに。

ただあまり話題になっていなかった作品でもあるので、「西加奈子の作品の一つ」くらいの期待感で読みました。

衝撃を受けました。西加奈子史上、最高の作品なんじゃないか?

『漁港の肉子ちゃん』、肉子ちゃんと呼ばれる丸々と太ったお母さんとその娘が、逃げられた男を追いかけて東北に向かう(ここのとこの描写も見事過ぎて笑える)ところから始まります。辿りついたのがある漁港、そこに佇む焼き肉屋で雇われ、その焼き肉屋を中心にストーリーが進みます。

西加奈子の作品の多くは、モヤっとした子種が作品のあらゆるところにばら撒かれ、それが自然にひと所に集められていって、一斉にパーッと花を咲かせてクライマックスを迎える、という感じ。これがホントに痛快。この作品も例外なく子種がまき散らされ、最後には打ち上げ花火、しかもとても儚い色の花火が打ちあがります。これ以上はネタバレになるので書きませんが。

しかしながら『漁港の肉子ちゃん』の最大の魅力はそこではないと思っています。その名のとおり、非常に滑稽な肉子ちゃんと、そんな母に愛想を尽かせている娘のキクりんのやり取りにこそ、ぼくは文学の魅力を感じました。

この二人の関係、ただの母子ではないのですよ。そのミステリーな感じを常に作品に漂わせつつ、最初は肉子ちゃんの滑稽で豪快な様子が前面に押し出されているかと思いきや、ストーリー展開にしたがってそれがスルスルっと後方に下がっていく。作中はずっとキクりんの一人称で語られるのですが、それがキクりんの感情の起伏とともに色彩が変わる。
なんて豊かな文章だろう、と。こんなに奥行きがあって、こんなに彩りが豊かで、人肌を感じられる。文章を読んでそこまで感じたことがこれまであっただろうか、と。

作者あとがきを読んで、さらに読後感は揺さぶられることになりました。この作品、実際に東北に取材(というか旅行)に行った際に西さんが着想を得て執筆したものだと。東日本大震災の舞台を。西さんは、東北のとある漁港にネコを探しに行ったときに、ここにこんな焼肉屋があって、そこに肉子ちゃんみたいな人が働いてたらいいな、と思ったそうです。
そして実際にその焼き肉屋は西さんの知らぬところで既に存在していて、肉子ちゃんのような方がそこで働いていたそうです。そして、震災で帰らぬ人となったそうです。
西さんはこの作品を世に出すべきかどうか迷い果てたそうですが、周囲のアドバイスを得て、意を決して世に放ったそうです。

『漁港の肉子ちゃん』、これは西加奈子ならではの、かの震災への「レクイエム」なのだろうなと。あの、あまりにも深く広く世の中を眺める目で、あまりにも繊細に正直に受け止める心で、かの震災を語ってくれた作品なのだな、と。

これを文学と称さずに、何を文学と呼べるのか。

おそらく文学というのは、それなりの時を経ねば文学と呼ばれることはないのだと思います。たとえそれが近代だとか現代だとかと分類されているとしても。

いつか西加奈子も文学として評価されるときが来るのでしょうか。
そのときは、誰のどのようなフィルターによって「翻訳」されていくのでしょうか。
本来、翻訳されてもなお、フィルターがかかってもなお変化しないもの、それが奥行や色彩、温もりといったものだと思うし、それが評価されるべきが文学だとも思うし、それが普遍的な価値だと思わせてくれたのが西加奈子なんですよね。

そしてそのときには、自分はこの『漁港の肉子ちゃん』こそが西加奈子の最高傑作だとイチ推しさせていただきたいし、さらに言えばこの作品を超えるものをこれからも西加奈子に描いていってもらいたい、と切に願います。

世の中に本があってよかった。西加奈子が生まれ出てくれてよかった。

おしまい。

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