ベーシックインカムはユートピアか?
長かった梅雨もようやく明けたと思ったらすぐさま茹だるような暑さがやってまいりました。夏ですね。もう夏休みも終わりと聞くと、あれ?春はどこ行った?と自分の記憶を探してしまいます。そう言えば今年の春は緊急事態宣言に覆い隠され、そのままの勢いで梅雨に突入してしまったので、出かけそびれた方も相当数いたのではないかと思います。政府が発行した特別定額給付金を受け取った受け取らないの騒ぎも遠い昔の記憶…。
ところでその給付金の給付、一度きりで終わってしまっただけに今更「あれ、用途としては何が正しかったの?」ということも考えていきたいところですが、これが恒久的に続くものであったら…ということを考えた方も少なくないと思います。
今回は、そんなことを考えるにあたって参考となる「ベーシックインカム」についての本を数冊読んだので、その紹介もかねて、ベーシックインカムという社会制度について考えたいと思います。
ベーシックインカム…そのまま日本語にすれば「基礎収入」。我々人類が最低限の生活をするために必要な収入、ということになるでしょうか。大切なのは、その「収入」がどこからやってくるのか?ということです。
遡って9年ほど前、東日本大震災を経てその意見を傾倒するようになった著名人が、ぼくの中で数人います。その一人が、坂口恭平。彼は震災を機に拠点を東京から熊本に移し、現政権に身を委ねていても国民はもう殺されるだけだ…との思いで、勢いで「新政府」を立ち上げた張本人です。もちろん妄想の中であったことは言うまでもありませんが、GoogleMap中の「誰のものでもない土地」に旗を立てて可視化したサイトを作成したり『独立国家のつくり方』というベストセラーを生み出したりと、彼の思想が現在の価値観へのアンチテーゼとなったことは疑いありません。宮台真司をはじめ多くの著名人たちも彼の思想の虜となっていた時期がありました。
ぼくが坂口恭平を知ったのはまさにこの頃だったのですが、ぼく自身も坂口恭平の思想にインスパイアされた者の一人で、それ以来、彼の著作を買いあさり、彼のtwitterのツイートに反応したものでした。いや、いまでも十分に影響されているのですが、いまや彼は孤高の存在になっておりぼくの理解がおいつかないところまで行っております。
当初、彼が著作の中で訴えていたのが「土地とはだれのものか」というものでした。日本国憲法には基本的人権の尊重が掲げられており、日本に生まれ出た者は基本的人権が与えられており、それは誰にも侵害できないものであるにもかかわらず、生きるために必要な衣食住を満たすためだけのものすら無償で与えられることがないというのは違憲ではないか、と。ぼくはこの考えに触れ、数十年生きてきてそんな当たり前のことにも気づいていなかった自分を恥じると同時に、たしかにこの問題に取り組まないことは国民としてどうなのか?という切迫した思いが与えられました。坂口恭平はこの問題に対して「日本銀行券をただの紙切れにしていこう」という主張をしていたのに対しぼくが注目し始めたのが件の「ベーシックインカム」でした。
ただ、そこから悶々と考えを巡らせたところでたどり着くのが旧ソビエトの社会主義で、それはいまの資本主義の世の中では成立しないものだな、と半ば諦めとも言える境地で自分の中で思考を止めていました。収入だけでなく勤労までだれかがコントロールするようならそれは堕落にしかならない、と。
そこから数年の時を経て、この惑星にパンデミックが訪れました。情報(過多)社会+パンデミック、これは最強です。太刀打ちする手段がありません。とどまるところを知らず下降線を辿ります。これは仕方がない。各国政府はこの事実を受け止めつつそれぞれのお国事情に合わせて政策を打っていきます。2020Tokyoは空しく儚く煽りを喰らいましたが、代わりに訪れた「コロリンピック」。世界各国のコロナ対策がまるで博覧会のように提示されていきます。アベノなんとか、とか、我が国のコロナ対策は国内外問わずさんざん叩かれていたようですが、その一方で一定の評価を得ていたのが「特別定額給付金」でした。用途はどうあれ、緊急事態宣言で被害を被った全国民に対して「なだめの供え物」のように与えられた1人10万円。これで国民がある程度黙らされたのは疑う余地もありません。
しかしながら、しばらくして、この「気休め」が何にもなっていないことに誰もが気づきました。自粛休業補償問題、学生の授業料問題、休校中の子どもがある中での勤労問題…いずれの問題も結局は経済の問題であり、我々は経済を回さない限りは国を維持することはできない、との考えが目立ち始めました。
感染症が流行る中で命の問題に直面した国民が、これを回避するために経済活動を止めた結果、また別の命の問題に直面。八方ふさがりのようになっていますが、ここで落ち着いて考えたい。
「我々は命の存続のために収入を得る」という、憲法でも定められている最低限の人権を守るだけのことも制されなければならないのでしょうか?「個人」でなく「国民」という単位で我々を捉えたときに、我々の命を守るのは果たして感染対策なのかそれとも経済対策なのか?実際にはその二択で秤にかけることに意味はありません。もっと根本的な問題、疫学的な見地は他に回すとして、「我々がただ生きるために経済は必須なのか?」ということです。我々は働いて収入を得なければ生きていくことすら許されないのか?それは基本的人権を守れていることになるのか?働けない人には生きる権利は補償されないのか?
ここで改めて、数年前に消えかけた「ベーシックインカム」が自分の中で再燃しました。
ベーシックインカムのことを正しく前向きに考えていくために、二冊の本を読みました。
『お金のために働く必要がなくなったら、何をしますか?』(光文社新書)
『ベーシックインカム入門』(山森亮・光文社新書)
前者はベーシックインカムを国の制度として取り入れるかどうかを国民投票で問うところまでこぎつけたスイスの例を引き合いに、ベーシックインカムのためのワークショップ等を紹介しながらベーシックインカムとはどのようなものであるのかを明らかにする一冊。
後者は前者の著者でもある山森氏が社会的・歴史的にベーシックインカムがどのようにして世間に認められていったのかを紹介する入門的な一冊。
この2冊を読んで思ったのは、「ベーシックインカムは決してユートピア構想ではない」ということでした。
端的に言えば、「何に価値を与えるか?」に尽きると思います。これまで世の中に認められている「価値」を、相応しいものに換える、というだけのことなのではないだろうか、と。
まず、ベーシックインカムがいまなぜ必要なのか?というところですが、これはシンプルに、生まれながらに生きる権利としての収入は個々人に無条件に与えられる、と考えるのが自然でしょう。経済で世の中が回っているのは必然なわけですから、そこは否定できません。特別定額給付金のように、個々人が生まれそして生涯を終えるまでに必要な収入が与えられればいいだけの話です。国を動かすためのランニングコストも含め、このように考えていけば国家予算はそれほど変動しないはずなので、景気に影響される部分は少ないはずです。現在の経済の大きな問題点、および昨今の死活問題を生み出す問題点の大元は、景気のようなものに簡単に動かされてしまう点にあるのではないでしょうか。収入が勤労とセットになっていることが前提になっているせいで、その大切な点が見落とされてしまっているのではないでしょうか。
中世ヨーロッパより始まった大量生産のシステムおよび資本主義の時代は、AIの台頭によりその在り方を変えざるを得ないところまで来ています。もはや資本主義は人類の繁栄のためのシステムではありません。価値の転換が求められている、とも言えます。AIに任せっきりにしてできないこと、それは価値を生み出すことではないでしょうか。いまこそ、その価値を大胆に捉え直せるチャンスなのではなかろうか、と。
その中で、我々が価値を見出すべきポイントはどこにあるのか、今こそイチから考えたいところです。いまや「繁栄」のためでなく「生活」のために価値を見出していくべきなのではないでしょうか。収入のためには勤労せねばならない、というマインドセットが、生活は補償されているのだから勤労は収入のためになされない、というものに変化すれば、我々の「仕事」はより自由にしなやかに発展していくと想像することはできないでしょうか。
上述のベーシックインカムについての本の中でも盛んに書かれており一番説得力があるのは、「家事」に対して正当な対価が払われているのか?というところです。
また、「土地」には誰がどのような経緯で価値を与えたのか?ということもあります。そこから考えていけば、税制そのものもイチから考え直すこともできます。
ベーシックインカムが当たり前のものになれば、「労働=収入を得る手段」という固定観念も崩すことができ、よりクリエイティブな仕事を我々の頭で考えていくこともできるようになり、AIの台頭に恐れ怯むこともなくなります。
「当たり前」を疑い、新しい「当たり前」を創造していく作業。価値の転換。経済の動きは関係ありません。このようなパラダイムシフトがなされれば、ユートピア的発想から解き放たれた、生きる権利としての「ベーシックインカム」を実現することができるのではないでしょうか。