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千葉雅也のように、無意識で、無意識を、書く。

千葉雅也が「無意識で書く」ことについて記事を書いている。
ここでの「無意識で」というのは、「万年筆で」とか、「ポメラで」とか、そういうツールを指しているように響く。おもしろい。

「ヒプノティックにトランスした状態になって●●●●●●書く」というのとは多分、違う。

千葉は次のように書いている。

"・・・まず、自分自身についての「二重のイメージ」を持つ。表面では、意識的に行動をコントロールしている。だが、もうひとつ、深いところの層、すなわち「無意識」がある。そこには、イメージ、言葉、映像、観念などのガラクタがある。それらが整理されているエリアもあれば、テキトーにあっちこっちに置かれているところもある。それらの一部が、見えたり見えなかったりする" 

このパラグラフにはとても励まされた!
どうしてかと言うと、ちょうど昨日、わたしもそのようなことを念頭において小説の1シーンを書いたからだ。

作家であるFHという人物が、他者に自分の無意識領域を保管してもらう場面。そのようなことを請け負う壺井という人物がFHの内部情報空間を渉猟しょうりょうする。

その時のイメージが、まさに有形無形の魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする抽象空間だったのだ。

壺井に走査されているFH自身にとっては、自身の内にあるのはまさに千葉が言うように「ガラクタ」のようにゴロリとしていて、矩形くけいとして感じられるのだった。

実は、わたし自身の小説は、この先どう閉じればいいのかわからないまま、書き継がれている。ただ、FHの無意識領域は、FH一人のものではなく、いわゆる集合的な、少なくともこの小説に登場する人物たちにとっては集合的なものになるんじゃないか・・・。そんな気がしてならない。

だから、エージェントのアルジズ、ゴーストライターのソルらが何かを幻視する時、彼らは実は一つのクラウドにアクセスしているのじゃないか・・・。そのはずだよな・・・?

千葉は言う。無意識と行き来することは芸術家たちを幾分不安定にする。だから、そこを安定化させるために人は無意識を素材とし、無意識をツールにして作品を作らずにはおれないのだ、と。

わたしは無意識のドロッとした感じに呑まれすぎないようにするために、〈ガラクタ〉という言葉をいつも忘れないようにしています。
〈ガラクタ〉って、質量感●●●がプンプン漂っていて、すきな言葉なんです。


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