小説 #04 ゴーストライターは影として何をするのか。
僕はフェイ・フューの屋敷で彼女の話をヒアリングしている。彼女が書こうとしていることが、どこへ向かおうとしているのか。それを探らなくてはならない。まだ言語化されていないノイズをシェイクしながら形を作っていくような作業が続く。
フェイは、まるで何か事故のようなものによって、記憶を(一時的にせよ)無くしているという。僕と会った最初の日に、そんなふうに訴えていた。記憶をある場所へストレージしているから、そこをあたってほしいと。
全てはフェイの作り話というか、ホラ話かもしれないのだった。それに、僕は精神科医ではないし、エンジニアでもない。だから、僕のいつものやり方で仕事をすすめるほかない。たぶん、エージェントのアルジズは、僕がそうすることを予想していたと思う。
僕とフェイはいつものように屋敷で紅茶をいただいている。
「フェイ、あなたが書こうとしているのは自伝という枠におさまりきれないような気がします」僕は言った。
「そう?やはりそうかな・・・」
僕は続きを待った。
「齢をとったから忘れないうちに書いておかなきゃ、というわけじゃないの。小さい頃のね、父や母がいた頃のことをこの頃なぜか頻繁に思い出すのよ。だから、それをぽつぽつと書いていた」
「いいですよ。お話する方が楽なのだったら、僕が書き取ります。その方が楽なのだったら」
「そうね。ありがとう」フェイはそういって、手元のノートをめくる。
「今までのところを見てくださる?」フェイはそのノートを僕に差し出した。
太い万年筆で、罫線をはみ出すようにしていろいろなエピソードが綴ってあった。人間や正体のわからない生き物があちこちに描かれ、矢印や丸も書きこまれていた。言葉以前の、ただの音。色。フェイのノートは子どもの落書き帳のようであり、ときに詳細な記述が何ページにもわたって続いた。
「おもしろいです。引き込まれます」僕は正直な感想を言った。フェイはちょっと微笑んだ。
「僕らはもっといろんなことを掬い上げてみましょう。ゆくゆく何になるかは、まだわかりません。もっとあなたのお話を聞いてみたいです」
「今思い浮かぶのはね・・・、ちょうど今あなたがやっているようなことを、わたしもやったことがある。そういうイメージが来た」フェイは次第にハスキーな声音となり、ゆっくりと語り始める。
こうして僕らは、FHの情報世界、記憶野へ没入していった。まるで、夕日が最後の明かりを稜線にとぷりと飲み込まれるようにして。
そこは梅雨の生温かい外気に似ていた。僕はその生温かさをぐにゃりと搔きわける。と同時に、生温かさのほうが、僕へ向かって僕を隙間なく覆っていく。
僕は忽ちのうちに、FHに特有な、FHのシグネチャーが刻印された空気に被膜されていく。子供の頃に泥水に長靴を浸けて遊んだことを思い出す。
これはフェイの話?まるで僕自身の体感のようだ。僕はメモを取った方がいいのだろうか?それとも、この時空へ僕自身を委ねてしまった方がいいのだろうか?
FHの語る情報世界が深く濃密でsensualなあまり、僕は自分を失いそうになる。今までにこんなセッションになる作家はいなかった。
しかし、自分を失うことこそが、影たるライターの究極の姿・・・。
ゴーストライターの教科書の1ページ目に書いてあるようなことを、僕は今更ながらに思っていた。しかし、そんなことはもうどうでもいい。
フェイの語りは長い時間をかけて、僕らを小さな子どもへと退行させ、その退行をしっかり維持していた。
僕らは梅雨のぬかるみに長靴をつっこみ、足も手も泥だらけにしてしまう。ぬかるみは深く、僕らを包む。
(もう一人の少女は誰だ?)
歓びの気持ちがものすごい。泥!泥!泥!
雨の音。温かい雫。
僕らはぬかるみに飲み込まれていく。歓びとともに。
ぬかるみが僕の眼を口を、耳を被覆していく。
こわくはなかった。もっと覆われてしまえばいいとすら思った。
そして、その思念に応じるように、ぬかるみは僕を幾重にも覆い、僕とぬかるみは次第に置き換わっていく。
最後の一滴がとぷり、と僕を覆い尽くした瞬間に、僕は屋敷のソファーに座っている感覚を取り戻した。
僕はフェイを見た。
彼女はややぐったりした様子で、僕の方を見ていた。
「今のも、使えるのかしら」フェイが言った。
「あなたさえ、お疲れでなければ。また聞かせていただきたいです」
「誰かに話すというのは・・・、いささか負担が大きいものね。やっぱり、あなたには、壺井に会ってもらいたい」
壺井というのは、フェイ・フューが記憶を預けているアーカイヴ屋だという。僕らは後日そこを訪れることになる。
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