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THE CHATSUBO PEOPLE

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Chatsuboに出入りする、都市遊泳者たちのつぶやき。街のあちこちで、彼らの眼が風景を鮮やかに切り取る。敷衍された《俳句》としての、140文字のつぶやき、ともう少し長いスケッチ。
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#千葉雅也

千葉雅也の『エレクトリック』がカッコいい。

千葉雅也の『エレクトリック』がよかった。 以下は、わたくしアルジズによる、極私的誤読的レヴュー。ネタバレの心配はありません。 作品は、主人公の高校生「達也」の視点によって、宇都宮の街をタルっと切り取っていくわけですが、なぜだか、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』っぽい神学的語りとして読めてしまう。どこもかしこも、猥雑で笑える場面のはずだけど、なぜか神々しい。 例えば、次のようなところに、わたしは神学っぽいキラキラした感じを受け取ります。 聖書に出てくるような感じの、シ

千葉雅也のように、無意識で、無意識を、書く。

千葉雅也が「無意識で書く」ことについて記事を書いている。 ここでの「無意識で」というのは、「万年筆で」とか、「ポメラで」とか、そういうツールを指しているように響く。おもしろい。 「ヒプノティックにトランスした状態になって書く」というのとは多分、違う。 千葉は次のように書いている。 このパラグラフにはとても励まされた! どうしてかと言うと、ちょうど昨日、わたしもそのようなことを念頭において小説の1シーンを書いたからだ。 作家であるFHという人物が、他者に自分の無意識領域

note で書きたい『意味がない無意味』のこと。

千葉雅也の『意味がない無意味』を精を出して読んだ。感想を note に書かずにはいれない気分。 読むパラグラフ、読むパラグラフ、千葉節の炸裂で、心行くまで堪能できました。断章の配置の順番も配慮が行き届いています。 最後の「力の放課後ーープロレス試論」は、じーんとくる終わり方。 やんちゃでおてんばな子供という贅沢な時空に回帰しよう、野放図なプロレスラー=子供になり直そう。そう締めくくられている。 そうだよね、とじーんとくる。哲学論集なのに、じーんとくる。

夏は嫌いではない。エアコンの効いた部屋の中から感じる分には。たまに外へ出るのみである分には。日差しと影とのコントラストが揺るぎなく、自信に満ちているところが、いい。蝉の音が喧しいのも、いい。もうちょっと、暑い日が続いてくれてもいい、とすら思う。

ソルのつぶやき。ベルクソンの『物質と記憶』に出てくる「逆円錐」。逆円錐の上部は、無限の多義性=接続過剰な領域。無数のイマージュがランダムに離散集合する記憶の無辺だという。それはまさに今、僕が、致し方ないこととはいえ、溺れるに至っている状態を表している。逆円錐の先端部は、行為!

千葉雅也の言説をクリップし続けている。まるで中毒だ。読むやつ、読むやつのいずれもが、なーるほどー!の連続だ。千葉が「梅雨」とか「蝉」とかに度々言及しているのも好ましい。いろんな領域を大きく跨ぎつつ書かれているのだけど、どういうわけだか、弾かれずに、しんみりと染み渡る。