筆名難題
noteを始めるにあたって、筆名を何かこしらえましょ、などと変な笑み浮かべて考えたが、「葉」という漢字を使いたいということの他、何も思い付かず、脳内には荒野が広がるのみであった。私は、おうのうしんぎん、と現在の心情を表現しようと思ったが、変換されぬではないか。現在、形容し難い怒りに震え、ペンネームを考えるのに消え去った、waste of 1時間を惜しんだ。もっと有意義に使えただろと。いくら私がうら若きセブンティーンだからといっても、時間を無駄にするのは違うだろと。ちなみに、大江健三郎『セブンティーン』についての文章を読んでから、自分が17歳のちんちくりん、ということもあり、むやみやたらにセブンティーンを文章に用いている今日この頃。響きも字面も良い。
突然だが、明日死ぬかもしれない、と考えると、より一層、筆名を考えるのに費やした時間が金銀宝石のように思える。自殺志願者ではないのであるが、あんだけ車が走っていれば、どれか1つが、音高く『Highway Star』を流しつつ私を引き殺したりしても、両耳から永遠と脳漿が垂れる奇病に襲われて、世界への愛を叫びつつ絶命の憂き目なんてことがあっても、変ではないだろう。嗚呼、我が1時間。少なくともそれがあれば、今手元にある『芸術新潮』を読みきるというのも、容易く、忍者でいうところの手裏剣くらいできていただろう。
さてと、筆名に関する気の効きすぎて腹を壊す、そんなエセーでも書きますか。と思ったのであるが、生憎のところ私は無知であって、そんなものは著せそうにない。私がなそうとしていたことは、いわば、絵の具の性質もよく知らんやつが、フェルメールの『Het meisje met de parel』(真珠の耳飾りの少女)を描こうとしているようなものである。
オランダ語でも使っとけば、己の唐変木具合を隠蔽できるかと思ったが、直ぐに見返してそんな甘くないことに気がついた。むしろ、気取り馬鹿という、かなり酷い具合の烙印をでこに押された。しかも、私の学でなく、Wikipediaから引用で原題を提示している事実が、太字になることで露呈した。己が手の施しようもない阿呆だと、初めての記事で露見するとは。
だったら投稿しなければいいのでは、という話もあるが、それはしない。何故なら、私は、もう3度程、アカウントを作っては、側溝にうっちゃってを繰り返しているのだ。今度こそは、続けていきたい。文章を書くのは好き好き好き好き好きっ好きっ愛してる、てなもんだが、突発的に全てを放棄したくなる癖がある。それらのアカウントは、今でも落武者。パスワードを失念し、ログイン不可であるが、残っていて、相変わらず、二桁にもいかぬスキを抱えて哀れ。
色々考えて、そろそろ、本気で時間を無駄にしたぞ、と思って、書棚に目を遣った。どれも、機知に富み、字面に圧巻たるものがある。あの方は東大で、そのまた横も然り、然り、然り、然り、早稲田、慶應、外大、京大。そうだ、そもそも、洒落た筆名というのは、without学では創れないものだ。それに悟ったセブンティーン。