東アジアに大きな勢力圏を築き、キリスト教勢力に対抗しようとした日本<日本文明と西洋文明の衝突>
江戸時代にキリスト教が
弾圧されていた事は
よく知られていますよね。
その前の、豊臣秀吉の時代も
キリスト教は弾圧されていました。
軍事的宗教的勢力としての西洋を
脅威と見なしたからです。
では、その前の織田信長は
どうしてキリスト教を
弾圧しなかったのでしょうか?
織田信長が西洋人の下心に
気付かなかったからでしょうか?
信長は政治軍事経済の総合力においては
日本史上屈指の天才です。
その信長が西洋人の下心に
気が付かないはずがありません。
それなのに
織田信長がキリスト教に寛容であった理由は
幾つもあった事でしょう。
その中で一向宗がらみの思惑が
語られる事が多いのですが、
注目すべき理由は他に2つ有ります。
①西洋の知識や技術、交易のメリットを重視した。
②戦国時代の日本にとって、
西洋はそれほど怖くは無かった。
当時、既にフィリピンにまで
勢力圏を伸ばしていたヨーロッパでしたが、
戦国時代の日本の
どの場所に西洋人が軍船で上陸したとしても
日本にとって脅威ではありませんでした。
まず、日本のどの場所に
西洋人がやって来たとしても、
当時の日本であればあらゆる場所に
「戦国大名」という戦闘慣れした
軍事勢力が存在していた。
また、
当時の西洋はまだ木造の帆船の時代でしたから
運べる兵数も少なく、大した砲も積めない。
織田信長が西洋の脅威を低く見積もり、
メリットの方を重視したのは当然と言えます。
この日本の軍事的な優位があったが故に、
江戸幕府は鎖国で西洋の忌むべき宗教を
遮断さえしておけば安全だったワケです。
西洋人と言えども
優れた陸軍力を誇る日本の防備を破って
日本を侵略出来るはずが無いので、
キリスト教という宗教さえ鎖国によって
遮断しておけば、
日本は一国平和主義を享受出来たのです。
外敵が怖くないのであれば、
内乱を防ぐためにも
軍事技術など発展しない方が良い。
戦国時代~江戸時代初期の日本は
世界最強の陸軍国であったが故に
外敵を恐れる必要が無く、
意識的に軍事技術の
発達をストップしました。
そして、
日本人は安心して
「鎖国」という眠りについたのです。
戦国時代には世界最大級の
陸軍国の1つだった日本ですが、
江戸幕府が「鎖国」という内向きの
対外路線を選択した事により
いつの間にか西洋の軍事力に
大きな差を付けられてしまいました。
江戸幕府は
鎖国によってキリスト教の流入を
遮断する事により
「一国平和主義」を担保したのですが、
200年以上の平和と引き換えに
世界情勢から遅れを取るという
デメリットも有ったのです。
では、対西洋を考慮した日本の選択は
鎖国以外には無かったのでしょうか?
いいえ、当然有りました。
鎖国と対極にある対外路線。
それを選択して結果として失敗したのが
豊臣秀吉の「唐入り」でした。
私は韓国系なので
個人的に好きか嫌いかで言えば、
秀吉は決して好きではありません。
ですが、今回は感情的にならずに
冷静に秀吉の対外戦略について
考察してみたいと思います。
秀吉の対外戦争を
「朝鮮出兵」と呼ぶ事が多いのですが、
これでは秀吉の目的が
朝鮮領有であったかのように
思ってしまいますよね?
「朝鮮出兵」というのは
結果から見た呼称であり、
秀吉自身はあの出兵を
「唐入り」と呼んでいます。
つまり秀吉の真の意図は
中国進出であり、
日本と中国を束ねる強大な国家を
築きたかったという事です。
この秀吉の構想には、
ヨーロッパ勢力に対抗できる巨大勢力を
アジアに築くという文明史的な意味が有りました。
秀吉の朝鮮出兵を論じる際、
朝鮮や中国との関係だけで論じると
大局を理解できません。
当時の地球儀全体を見てみると、
世界の大部分がヨーロッパ勢力に
染まりつつあった事が理解できます。
「太陽の沈まぬ帝国」を築いた
スペイン王フェリペ2世は、
秀吉と同時代の人物なのです。
「フィリピン」という国名は、
このフェリペの名から名付けられています。
そんな拡張路線のヨーロッパ勢力が
東南アジアにまで勢力を伸ばし、
次は極東アジアを伺っていたのが
秀吉の時代なのです。
安土桃山時代の日本が東南アジアのように
侵略を受けなかったのは、
単に日本の軍事力が優れていたからに
過ぎません。
この世界情勢の中で
ヨーロッパ勢力を警戒しないなんて
あり得ない事です。
「バテレン追放令」を出していた事からも
秀吉がキリスト教勢力に
警戒感を持っていた事が
確実に分かります。
キリスト教勢力を警戒していた秀吉は当然、
ヨーロッパに対抗するための
戦略を練ったはずです。
秀吉の構想とは、
ヨーロッパ勢力に対抗できる巨大勢力を
アジアに築くというものでした。
現代の日本人は
鎖国が当たり前の選択だったかのように
思っていますが、
決してそうではありません。
秀吉の海外拡張路線が
失敗したからこそ、
江戸幕府は「一国平和主義」の道として
「鎖国」を選んだのです。
秀吉の「唐入り」を
晩年の秀吉の誇大妄想扱いする言説が
多々見られますが、
実際はそうとも言えない。
同時代に
スペインが東南アジアにまで勢力を
広げている事を知った秀吉は
日本が選ぶべき選択肢を当然考えたはずです。
文明史の観点で言えば、
16~17世紀の日本には大まかに
2つの選択肢が有りました。
①東アジアに西洋に対抗できる勢力圏を築く。
②キリスト教を遮断して内にこもる。
当時の日本が世界最大級の
陸軍国であった事は、
確かな事実です。
そして、
秀吉には、天下統一を果たした
精強な軍隊があった。
その兵士は相次ぐ内戦を
戦い抜いた精兵揃いであり、
指揮官も修羅場をくぐり抜けた
百戦錬磨の名将ばかりです。
実際、唐入りにおいても
純戦闘的には碧蹄館の戦いや泗川の戦いなど
秀吉軍は幾度も明軍を打ち破っています。
鉄砲の装備率からしても
秀吉軍は明軍に勝てる十分な勝算がありました。
天下を統一した実績のある
秀吉ほどの英雄であれば、
海外拡張路線を選ぶのはむしろ自然と言えます。
秀吉に海外拡張路線を選択させた事情は
他にもあります。
天下統一を成し遂げた事により、
大量の余剰兵員が生じたからです。
平和の時代には
兵士は不要となります。
しかし、
この余剰兵員を簡単には
リストラ出来ない。
大量の失業者(浪人)が生じてしまい、
社会不安の原因になるからです。
ならば
この余剰兵員を使って
海外拡張路線を取ろうとするのは
人的資源の有効活用だったと言えます。
秀吉の唐入り失敗を
教訓とした江戸幕府は
海外拡張路線を選ばなかったため、
国内の安定後に
「余剰兵員をどうするか?」
という問題に直面しました。
江戸幕府の場合は
多くの大名家を取り潰すという形で
余剰兵員の整理に着手しましたが、
大量の失業者(浪人)が生じてしまい、
これが江戸時代初期の社会不安(慶安の変など)の
原因となったのです。
それでも二百年以上の平和を
享受した日本でしたが、
世界情勢は日本の一国平和主義を
許そうとしなかった。
幕末以降、
日本文明は西洋文明との衝突を
避けられなくなった。
(続き↓)