蘇軾の詩までのタイムトリップ
中国の北宋代の詩人 蘇軾(そしょく)=蘇東坡(そとうば)である。
漢字も読みも難しくて覚えられなかった。
その蘇軾と、ふいにまた、出会ってしまった。
春宵一刻値千金 花有清香月有陰
これは、童謡「花」の3番の歌詞のもととなった詩である。
童謡「花」 作曲:滝廉太郎 作詞 武島羽衣 ※歌詞3番 錦おりなす長堤に くるればのぼるおぼろ月 げに一刻も千金の 流れをなににたとふべき
この「一刻も千金の」が、蘇軾の「春夜」の一節に由来しているのだ。
春宵一刻値千金 花有清香月有陰 読み:しゅんしょういっこくあたいせんきん はなにせいかあり つきにかげあり 意味:春の夜はわずかな時間でも千金の値打ちがある。花は清らかな香りを放ち、月はおぼろに霞んでいる。
また、なんと、ため息が漏れるような情景であろうか。
「また出会ってしまった」といのは、私が蘇軾の詩を座右の銘としているからである。
いや、蘇軾の詩、ということは忘れていた。
柳緑花紅 真面目 読み:やなぎはみどりはなくれない しんめんもく 意味:柳は緑だからこそ美しい 花は紅いからこそ美しい そしてそれがあわさった様もまた美しい
真面目(しんめんもく)は、真=真実の 面目=姿 という意味だそう。
その人がその人らしくある。そして、その人らしくある人同士がともにある様の美しさ。
自分を尊重し、他者を尊重し、そして、ひとりで、またはともにある時間を慈しむ美しさ。
また、浮かんでくるその緑の、そして紅い色のあわさるその情景が心を落ち着かせてくれて、私もそのようでありたい、と、その詩に出会って以来、座右の銘にしていたのだ。これは確か禅語として、お茶の間の掛け軸などでもお馴染みの一節だと思う。
だが、蘇軾。
蘇軾については覚えられなかった。というか、興味がなかった。
それが、「花」のもとになったということで、ここでまた出会ってしまったことで、がぜん興味が沸いてきた。
興味がわく=好き、である。
好きと好きは繋がっている。
これからのぞく蘇軾の描く詩の世界にわくわくする。
娘が歌っていた童謡「花」が一晩で、私を中国の北宋代の詩人蘇軾まで連れてきてくれた。