障害者の生産性について考えること。~凍蝿よ生産性の我にあるや~
この句は、5、6年前にバラエティー番組プレバトの中で詠まれた句です。
政治家の経験のある東国原英夫氏のもの。
この句の背景には、LGBTの問題に接していた時に彼自身が聞いた「LGBTの人間に生産性はない」との発言をきっかけに凍蝿に生産性とは何なのか凍蝿ではなく彼自身に問いかけたものだと、私は解釈している。
この句が詠まれた時、私はまだ発病前だった。けれど印象深く心に残っていて、最近、自分の生産性について考える機会が増えた事から、触れてみようと。
この凍蝿は、動く事も出来ず、何の価値もないように見える事から生産性はないと考えるのが普通だろう。
この句の詠まれた背景からLGBTの方々がそれぞれのパートナーと愛を育んでも子を産む事が出来ない。
日本の少子化に歯止めがかからないどころか、少子化を促進してしまうと考える保守層からの発言だと思う。
子どもを産む事が出来ない。それを以て生産性がないと切り捨てるのは行き過ぎている。
ひとり一人に人格がありパートナーを選ぶ権利があるのだから。
話を自分に引き寄せて考えてみたい。
私は、凍蝿に近づきつつある。
出来ない事が増え、誰かの手を借りなければ生きていけない。
よく議論の対象になる「障害者の生産性」いろいろな福祉サービスの利用や障害者年金の受給など、生産性のない障害者に税金を使う事に反対している人たちがいる。
障害のある子が交通事故にあって亡くなった場合、遺失利益(生涯働く事で得られる賃金に相当する額)は0円と算定される事が多い。
これが、遺族への損害賠償額となる。
確かに、障害を持っていると就労出来ない事や就労出来たとしても生計を立てられるきちっとした収入を得る事は難しいとされている。
だからといって、裁判所が障害を持った子の遺失利益を0円と算定するのは間違いではないかと思う。これが日本の現状。
思考がアップデートされていないと感じるし、裁判官は前例が無いことを嫌う。
障害を持っていても平等な価値をの命であるべきなのに。
今、働き方も多様化し、リモートワークも普通になった。
ずっと、障害者というだけで生産性がなく穀潰しのように言われるのは侵害だ。
生産性って何なんだろう?
働けなくなったら、壊れたロボットみたいに捨てられるのかな?
ここのところ、心が揺れて。
振り幅が大きく自分のコントロールがとても大変。
前向きにいろいろ頑張りたい。これは本当の気持ち、それと同じくらいもう全てを投げ出したい気持ちもある。
そんな私を支えいるのは、お母さんという役割。この仕事がなければとっくに私は消えている。
消えそうで怖いという人のために生きて、生かされている。
皮肉だけど、みんなの寂しさが私を生かしている。生産性も担保されている。-✖️-が+になる感じ。
今日もありがとう☺️私を頼ってくれて感謝しかない🙏
~おしまい~