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子供のためのオルセー美術館(161)ああっ、やられた!/マネ・切り取られた絵、闘牛士

マネ、あこがれのスペインに


スペインにはじめて行ったマネは、闘牛場とうぎゅうじょうはなやかさにびっくりしました。
うまってうしたたか闘牛士とうぎゅうし大興奮だいこうふん観客かんきゃくいろとりどりの衣装いしょううつくしさ!
マネは、何枚なんまいもの闘牛とうぎゅうの絵をいたのです。

ところがこのは、ボードレールやゾラには賞賛しょうさんされたけれど、たくさんの批評家ひひょうかからきちんと描けていないと非難ひなんされてしまいました。
マネは、その後何年ごなんねんものあいだ、この絵を自分じぶんのアトリエにしまいこんでしまいました。

られた絵


そしてべつ闘牛とうぎゅうの絵も、展覧会てんらんかい入選にゅうせんしたにもかかわらず、風刺画ふうしがでおもしろおかしく批判ひはんされて、

「この絵は、ドン・マネさんによる、スペイン特製とくせいリベーラふう黒ソースえオモチャでございます」と、書く人もいました。

そこでマネは、なんと。
このってしまったのです。

3人の闘牛士とうぎゅうしの絵と、

la corrida

あと、うし攻撃こうげきされてたおれた闘牛士とうぎゅうしの絵と。

そしてマネは、この絵をもっと力強ちからづよ作品さくひんにするために、時間じかんをかけてなおしました。
3年後ねんごにできた絵は、

横長よこながの大きいキャンバスいっぱいのたおれた闘牛士とうぎゅうしふか黒色くろいろ衣装いしょうに、白いベストとタイツ、あわいピンクのはた不思議ふしぎうつくしさでひかります。
この絵はかげが描かれていないのに、闘牛士とうぎゅうし姿すがたてくるように見えました。


さて、この闘牛士とうぎゅうしの絵を見ると、なんかマネの有名ゆうめいなこの絵、おもしませんか?

ほら、フルートの。


Édouard Manet
L'Homme mort dit aussi Le Torero mort! 1864
Washington, National Gallery of Art
エドゥアール・マネ
死せる闘牛士  1864  (後に、死せる男1867) ナショナルギャラリー〜オルセー美術館企画展

元々この作品は、同年のサロンに出品するための大きな絵「L'Épisode d'une course de taureaux」(1865/1866)の構図の一部に過ぎなかった。自分の作品に対する批評に不満を抱いたマネは、1864年のサロンで入選したにもかかわらず、この絵を切り取ってしまったのである。しかし、生と死の狭間をさまようこの人物像の持つ力に敏感に反応し感動を覚えるという相反する良評価も示され(要するにマネはこの助言に従い)、作品の2つの部分を残し、一つをLa Corrida、もう一つをより普遍的な題名、死せる男と名付けて1867年に展示した。

musée d’orsay 

La Corrida 1864-1865
L'Épisode d'une course de taureaux の切り取られた上方部分
The Frick Collection

Édouard Manet
Combat de taureaux   Entre 1865 et 1866
闘牛  1865〜1866

1865年のスペイン旅行後に描かれた。ボードレール、ゾラに賞賛され支持されたが、他の批評家たちから強く非難されたため、1872年にゴングール兄弟から賛辞を受けるまで、マネはアトリエにこの絵を飾り公開しなかった。
闘牛場の光景に深い感銘を受けたマネは、1865年9月17日、ザカリー・アストリュックに宛てた手紙の中で「劇的な部分、猛牛の角に突かれ、ひっくり返った馬、猛牛を押しのけようとする装備した軍勢」を忘れることなく「この色とりどりの人々の集まりの素早い動きをキャンバスに描こうと思っていた」と説明している。
1862年から1867年にかけて闘牛に取り組んだとき、マネはすでに闘牛をテーマにした他の作品《エスパダの衣装を着たV嬢》と《闘牛の行進》を制作していたが、まだスペインを訪れていなかった。マネがパリのアトリエでこの絵、闘牛を描き始めたのは、旅から戻った1865年のことだった。

wikipedia.fr et musée d’orsay 

Édouard Manet
Le Fifre 1866
Refusé au Salon de 1866  Paris, Exposition universelle, pavillon Manet, 1867
笛を吹く少年 1866  (今回は部分)
サロン落選 1866  

お読みいただきありがとうございました。
横に長い等身大の闘牛士の作品、今にも起き上がりそうな力強さ美しさまで感じるのに、血を流し生死をさまよっているのです。そしていつもの、このマネの黒、ピンクはどうでしょう。
本文中の風刺画につけられた当時のコメント、「リベーラ風黒ソース」のリベラとは、有名なバロック黄金時代のスペイン画家リベーラをもじったものです。他にも、マネのことをドン•マネ Don Manet と、スペインばかり描くマネにスペイン風の名をつけて皮肉ります。
この切り取られた絵の全貌が明らかになるのはこの風刺画のおかげですが、当時のこうした皮肉の効いた版画、風刺画もアートであり新聞や雑誌に刷られたものが今も残っています。

足部分だけで、笛吹く少年がわかった方はいらっしゃいますか。こちらの人気者はまた改めて取り上げます。

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