アリストテレス『ニコマコス倫理学』高田三郎訳、第一巻第一章1094aについて③
※出典や諸注意については以下の記事を参照してください。
前段では目的というカテゴリーが規定された。それを前提としつつ、活動と目的との関係を検討しよう。
活動は複数ある。さらに、諸活動の目的も複数ある。
実践とか技術とか学問とかにもいろいろ数多いものがあって、そのそれぞれの目的とするところもまた〔…〕いろいろなものとなってくる。
アリストテレスは活動の複数性を示しつつ、目的を活動のメタレベルに位置づけている。目的もまた、活動に応じて複数ある。では、諸活動・諸目的の関係はどうなっているのだろうか。
アリストテレスは以下のように仮定する。いわく、諸活動が一つの能力に従属すると。その場合、棟梁的な活動の目的のほうがその他の活動の目的より望ましい。
こうした営みの幾つかが或る一つの能力の下に従属するとすれば〔…〕そこではおよそ、棟梁的なもろもろの営みの目的のほうが、これに従属する営みの目的よりも、より多く望ましいものなのである。
以上のように、活動に区別をつけることによって、アリストテレスは諸目的を評価している。かれはなぜそのような評価をくだすのか。
棟梁的な活動の目的のために、その他の活動の目的が追求されるからである。つまり、棟梁的な活動の目的が望ましいと評価されるのは、それが他の目的の原因であるからだ。
なぜなら前者〔=棟梁的なもろもろの営みの目的〕のゆえに後者〔=これに従属する営みの目的〕は追求されるのであるから。
では、棟梁的な活動の目的のほうがその他の活動の目的より望ましいとする説は、以前の議論にどう適用されるのか。以下、参照。
事情は、活動が目的である場合も、成果が目的である場合も同様である。
活動それ自身がはたらきの目的である場合についても、あるいはいま挙げたもろもろの学問のように活動以外の何ものかが目的である場合についても、この点〔=棟梁的なもろもろの営みの目的のほうが、これに従属する営みの目的よりも、より多く望ましいものなのである〕において変りはない。
ただし、筆者にとって、以下の問題が未解決だ。
諸活動が一つの能力に従属するというのは、諸活動が単一の能力から必然的に導かれることを意味する。
棟梁的な活動が説明されていない。
棟梁的な活動の目的を評価する理由が理解できない。
棟梁的な活動の目的のために、その他の活動の目的が追求されると判断する理由も追究されていない。
成果が目的である場合、棟梁的な活動の目的のほうが、その他の活動の目的より望ましいのは理解できなくもない。しかし、活動自体が目的である場合に、この判断が適用される理由が示されていない。
これらの問題はのちの章で検討されるだろう。