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湯けむり夢子はお湯の中 #6 湯銭郷のセイレーン

 金曜の夜。外回りの仕事でヘロヘロになった体にムチ打ち、高速道路を走っています。
 すべては湯のため。旅情も味わいつつ、疲れを癒したい。夜だから景色は全然見えませんけどね。

♨️

 ご無沙汰してます。湯川夢子40歳。変わらず元気に湯渡りの日々を過ごしております。
 今宵は、私の住む街から車で一時間半ほどの『湯銭郷ゆせんきょう』さんにお邪魔しています。
 
 山川豊かな場所にあり、サウナや高濃度炭酸泉、露天風呂も完備。わりと最近できた温泉施設なので、館内はとても綺麗。

 お目当ての高濃度炭酸泉は人でいっぱいかしら?と、やや覚悟しながら浴室のガラス戸を開けましたが、運良くいていました。
 私は素早く体を洗い、泡を流して浴槽へ。

 高濃度炭酸泉は、高血圧や糖尿病予防などに効果があります。また、血行が良くなり、冷え性を改善。さらには、疲労回復と美肌にも一役買ってくれるありがたい泉質なのです。

 それにしても、金曜の夜なのにずいぶん人が少ないな。脱衣所のロッカーはわりと埋まっている印象だったけど…。
 
 高濃度炭酸泉はぬるめの温度設定ではありますが、約15分を目安に出るのが望ましいので、そろそろ外に移動しようと思います。

♨️

 二重になったガラス扉を開けて、露天風呂エリアへ。ヒンヤリとした夜風が気持良いですね。

 渓流を臨めるよう高い位置に造られた露天風呂。夜なので、せせらぎに耳をすませ、雰囲気だけでも…と、階段を上がり、お風呂に入ろうとしたときです。私はギョッとしました。

 石に囲まれた湯の中に、乙女達やかつての乙女達が大集結しているではありませんか!石田なり!

 しかし、この浴槽は源泉となっておりますので、ぜひとも入っておきたい。他のお風呂で人が引くのを待とうかと思いましたが、みなさんご親切に、私の入るスペースを空けてくださいました。
 会釈しつつ失礼します。

 ふうぅ…… いい湯だなっ♪と。

 思わず唸りそうになっていると、一番奥にいた女性が、湯の中から立ち上がりました。なぜか一同の視線が彼女に集まります。私は彼女が通れるようにと腰を浮かせたのですが、今度は誰ひとり動こうとしません。

 のぼせたのでしょうか?湯から出て小高い石に腰掛ける女性。みなさん、本当にどうしたのでしょう?ますます熱い視線で湯から彼女を見上げています。つられて私も見てしまう…

そのときでした。

あなたの 燃える手で
あたしを 抱きしめて
ただ二人だけで 生きていたいの

♪『愛の讃歌』

 越路吹雪さま…?!


 石の上に座った女性が、突然なかなかの声量を響かせ歌い出したのです。
 待ってました!とばかりに湯に浸かった乙女達はバシャバシャと飛沫しぶきを上げて拍手。

 一瞬、何が起きたのか理解が追いつきませんでした。ですが、乙女達の頬には湯ではない熱いものが伝っております。

ただ命の限り あたしは愛したい
命の限りに あなたを愛するの

♪『愛の讃歌』

 そして、なんということでしょう。冷静にこの状況を見極めようとしていた夢子の目にも、いつの間にか涙が。

 愛の讃歌。迫力の歌声。立ちのぼる湯気は、歌姫を神秘的に演出するスモークさながら。彼女の身振りと歌いっぷりに、揺さぶられまくるマイソウル!これが泣かずにおらりょうか。

「オーーウィ!そろそろ出るぞ~!」

 ?!

 隣の男湯から殿方の掛け声が?すると、歌の余韻もそこそこに、乙女達がスススと露天風呂の両脇へ身を寄せて花道を作りました。

「みなさま、ありがとう。お先に上がらせていただきます」

 ドラマチックなお辞儀をしたあと、上品にタオルで前を隠し、歌姫は露天風呂から脱衣所方向へと去って行ったのでした。
 その間、乙女達の熱意のこもった拍手が、彼女の背中へと送られておりました。

 私は夢でも見ていたのでしょうか?


♨️


 あのショータイムについて、「あなた、初めてのかたね」と、観客のなかにいた常連のひとりが私に語り聴かせてくれました。

 数年前のこと。
 鳴かず飛ばずのまま歌手を引退した歌姫が、この地を観光で訪れました。
 そのときに乗った渓流下りの舟の船頭さんに一目惚れしてしまった彼女。でも、私は男に何度も裏切られ「もう恋なんてしない」と自分に誓ったのよ。と、自身に言い聞かせ、諦めるつもりでいました。
 なのに想いは募るばかり。

 どうにも彼への想いが絶ち切れず、苦しみの果て、渓流の岩場にしがみつきながら、彼の舟が通るたびに『愛の讃歌』を歌って燃える恋心を伝えようとした彼女。
 想像するとなかなかの光景ですね。

 しかし、事態は思わぬ方向へ。

 渓流下りの観光客達が、なんだなんだ?とざわつき、そのうち、彼女の歌声を聴くと恋が成就するという噂が流れたのでした。
 やがて、鈍感な船頭さん、やっとあの歌が自分に向けられたものだったと知り、「もう岩にしがみつくことはないぜ。俺の女房になって、俺のそばで歌っておくれよ」と言ったとか言ったとか。(言ったようです)
 
 晴れて仲良し夫婦となった歌姫と船頭さん。
 ふたり揃ってこの湯銭郷の常連客になり、お風呂を上がるお伺いの合図として男湯へ歌いかけていたそうです。

 それがいつの間にかあのようなワンマンショーに。

 今度は、湯に浸かりながら彼女の歌を聴くと、恋愛成就・夫婦円満にご利益があると云われているのだとか。
 彼女はいまでも伝説の歌姫なのですね。


「あなたも彼女の歌を聴いて、大切な人の顔が浮かんだんじゃない?」

「はあ…大切な人。そうですねぇ。どうでしょうか?」

 ビリーの湯の拓ちゃんだったら、きっと歌姫の歌を聴いて薫子さんのことを思い浮かべるんだろうな…なんて考えてしまうあたり、私にはご利益なかったのかもしれません。
 でも、歌姫を見上げる視界がぼやけ、その奥に私は、近い未来、愛するであろう誰かの影を見たような気がしたのです。

歌の魔力か、湯にのぼせたのか、あの心地は一体どちらだったのでしょうね?

 けっこうなお湯と歌声でございました。本日はこのへんで。


♨️おしまい♨️


長めのお話を読んでいただき、ありがとうございました!🙇✨️

 
 

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