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ぬんぬん…てくてく…トボトボ【物語】

 隣り隣り街のスーパーマーケットへ行く車内で、リンは夫のテルと口論になり、スーパーの駐車場に着くなり買い物を放棄した。
 肩をいからせ、スーパーの正面入口を鮮やかに素通りし、暮れなずむ街の光なき影の中に飲み込まれてゆく。
 いつも車でしか通らない道を初めて歩いている自分に高揚しながら、一方でテルへの怒りをリズムで刻むとこんな感じ!とアスファルトを踏み固めるリン。

テルめ、テルめ、テルめ!
バカにしおって!あの時代錯誤の亭主関白男が!

 こないだの大喧嘩ではテルが床にカレーをぶちまけ、掃除洗濯・心のケアにずいぶんの時間を要した。
 リンは床に這いつくばって自分の涙で拭き掃除した。
 そのあとハッと我に返り念入りにアルコール消毒したが、誰かが褒めてくれるわけでもなし。夜中にひとりでレディーボーデンのバニラ(大)を食べきってやった。

 しばらく歩くと、パン工場が現れた。
 いつもこの前を車で通るとき、窓を開けると甘い良い匂いが入り込んでくる。
 リンは徒歩ならではのゆるりさで、心ゆくまでその芳醇な香りを堪能した。
 鰻屋から漂う煙の匂いで飯を食う話となんら変わらんなと思う。

 おや、いま後ろから自分を抜き去り、先の交差点で信号待ちしているのは…赤いリンのマイカー。
 お慈悲でポケットにあった車のキーはテルに差し出してやった。それをアイツはスイ~と私を通り越して…
 リンの怒りが再燃した。

 妖狐の如く目はつり上がり、口が耳まで裂けかけたが、お散歩中のご機嫌なゴールデンレトリバーくんと目が合い、瞬く間に柔らかな笑みが浮かんだ。
 
 しかし顔を上げると、信号が変わり、赤の軽自動車のテールランプがスーンと容赦なく遠ざかって行くのが見えた。
 おのれ…と、妖狐を飛び越し鉄輪(かなわ)の女が現れるのを理性で押し込め、リンは気を取り直して歩き出した。
 ふだん歩く習慣のないリンにとって、スーパーからアパートまでの道のり約3キロは万里の長城に匹敵する。先は長い。

 街道や車のライトで二重に浮かび上がる自分の影を踏みつけ、刀のように鍛える。強くなれ、強くなれ、暗示でも何でもいい。ひとりで生きてゆく力を与えたまえ。祈るリン。
 

 歩道脇のアスファルトの隙間には、スミレの花が可憐にひたむきに咲いている。近くにはよく手入れされた花がプランターいっぱいに咲き乱れるお宅があり、どうやらそこの住人が、アスファルトのスミレの根元にも土を被せてあげたようだ。

 狭い歩道はすれ違うのがやっと。向こうから人が来ると、リンはその都度スピードを落とし、相手に道をゆずった。
 仕事帰りや買い物帰りの人々が駅方面から流れてくる。今夜、うちの夕食はどうなるんだろ?
 リンは思い立って、もやしとチキンソテーの惣菜だけ小さなスーパーで買った。

 踏切で電車の通過を待ちながら、離婚届を書く自分を想像するリン。つぎに、クローゼットから自分の荷物をボストンバッグに詰め、赤い車に載せるところ。知らない街で家探しと職探しをするところ。ひととおり想像した。

 三十半ば越えての女ひとり旅か…。

 リンの抜け殻がユラユラと遮断機を乗り越えて、下りの特急電車に吹き飛ばされた。
 
 リンはハッと我に返り、バッグから消毒用のハンドジェルを取り出し、両手にすり込んだ。
 出遅れたリンの両側を人や自転車が避けて通る。
 いつの間にか電車は通り過ぎ、遮断機が上がっていた。行かなくちゃ…と再び歩き出す。

 すっかり陽は沈み、昼間たくさんの幼稚園児たちが遊び回っていた公園は、無音の深海のようだ。
 だいぶ歩いた。人気のない公園は怖いけど、公衆トイレ前のベンチが一番明るいので少し休むことにした。
 着信がさっきあった。布バッグの持ち手に着信を知らせる振動が伝わってきたが、すぐには確認せず放置していたのだ。
 着信はテルからだった。

 ベンチから立ち上がり、本当はすぐにでも走って帰りたかったが、なにせ歩きすぎて思うように進めない。そしてなぜか、足は遠回りのルートを選んで向かっていた。
 自分が悩み苦しんだ相当の苦痛を相手にも味わってほしかった?それもあるかもしれない。もしくは一握りのプライドがそうさせたか。

 結局は自分で自分を追い込んだだけだった。

 足をもつれさせ、ヘロヘロになりながら、最後に心臓破りの坂を上がってやっとこさアパートに辿り着いた。そっと鍵をあけ、音をさせないよう注意深くドアを閉める。
 惣菜ともやしを冷蔵庫に入れたら、リンは家を出ていこうと思っていた。

 すると、ドアの閉まった書斎の方から夫の声が聞こえてきた。
 
 はい、はい、申し訳ありません。助かります。お手数おかけしますが…はい、差し引いた金額で結構です。
 
 仕事相手との電話のやり取りだった。
 テルが電話の向こうに謝っている声を聞き、リンの胸はギュウッと絞られ苦しくなった。
 この人の一番の味方でいるんだ、といつも思っていたはずなのに、自分はなんの助けもできていない。
 リンは床の上にほとんど倒れ込むように突っ伏した。
 

 喧嘩の原因は、絶対自分に非はない。正しいと思ったから口にした。しかし、テルを怒らせてしまった。    
 自分はこれまで色んなことを我慢して、譲って、諦め、許していると思っていた。そのうえテルが自分を怒るのかと腹が立った。
 なのに、いま、ツラい。
 怒っていたときのパワーは、長めの散歩によってほとんど削がれていた。

「あれ?おリンちゃん、帰ってたの?」

 書斎から出てきたテルが、床に倒れたリンの頭をポンポンと撫でた。

「私、出ていくよ。今日のところはヘトヘトだから、一晩眠ったら明日の朝出て行く」
 最後の力を振り絞って出した言葉がこれだ。

「まあ、そう言わず。ゆっくりしなさいよ」
 さっき赤い車で通り過ぎたテルも、リンに怒っているところを見せつけた自分は大人げなかったなと反省しているらしかった。

 テルが温かいお茶を淹れ、リンも素直にそれをすする。
 
 モヤモヤも怒りもパッとは消えないが、やがて薄くはなるだろう。そうしたらもう消えたことにするのだ。

「おリンちゃん、冷蔵庫にもやしあるけど、ラーメンでも作ろっか?」

「そのもやし、私がさっき買ったんだよ」

 ふたりの今夜の夕食は、ラーメンだ。





長文にもかかわらず、最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍀うれしいです!



 

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