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リカルド ~月~ 第10話【物語】

 リック伯父とアイビー奥様とのドライブは、こんなに愉快なことがあっただろうか?というくらい楽しく、沸き立つ気持を抑えきれなかった。
 リックはゴーグルを装着し、見ようによってはパイロットのようにも見えた。アイビーさまは私を助手席に座らせ、ご自分は後ろの席に収まると、振り返る私に優しく微笑みかけた。すかさずリックが後部座席に屋根を被せる。
 牧草の薫りが鼻先をくすぐる。車は凸凹道でも臆することなく突き進む。車ごと風になった気分だ。

「リオ、叫んでもいいんだよ」
「えっ?」

 そんな…叫ぶなんて、お行儀の悪いことでは?でも、今まさに私はそうしたかった。すると、リックはニッと笑って、突然雄叫びを上げた。

「ははは!爽快だろ?」
「もう!驚いたじゃないか!」
「ほら、リオもやってごらん」

 困った顔でチラッと後ろのアイビーさまを見ると、奥様までもがいたずらっぽい笑みを浮かべ、帽子とハットピンを外し、頭を振って髪をなびかせた。息を飲む美しさに思わず見とれていたが、奥様が背後から私のことをくすぐった。

「アイビーさま?!や、やめてください、アハハハ!」
「こういうときはお行儀なんて気にしちゃだめ。周りには誰もいないのよ。こんな自由、なかなかないわ!」

 私達は狼の遠吠えのような、およそ人の発するものではない野生の声で叫んだ。誰か耳にした者がいたら、きっと震え上がるであろう声で。
 リックが大好きだ。アイビーさまも大好きだ。両親のいない可哀想な自分をしばし忘れさせてくれた。
 

🌛

 車は海沿いの崖道を通り抜け、鉄道と平行して走り、並木のある街道へとさしかかった。なんとなく見覚えがある。懐かしい黄色の道。私の生まれ育った村に違いなかった。

 ああ、憶えている。村の一番奧に位置する私達の家。
 つるバラの絡む石の壁、鎧戸のついた窓。父ルイスと母エマの大切にしていたガーデンも、経年を感じさせないくらい、荒れた様子もなく維持されていた。

 しばらく声も出せず、門を一歩入ったところから動けなかった。あの頃の私達親子が、いまでもこの家の中で幸せに暮らしているのでは?そんな幻想に囚われ、キュッと胸を締めつけられた。

「中に入ってみるかい?」

 ポケットから鍵を取り出し、リックが慣れた様子で扉を開けた。むせ返るようなポプリの香りが中から溢れ出す。リックはリビングから二階へと順に窓を開け放ち、やがて神妙な面持ちで降りてきた。

「月に一度掃除や空気の入れ換えに来ているんだが…こないだ、鍵を締め忘れたんだろうか?」
「どうかしたの?」
「いや、僕の不注意だろう」

 アイビーさまは不安にならないようにと振り返り、私の手を取った。

「リオ、何か持ち帰りたいものがあったらおっしゃいな」
「…図鑑が…天体図鑑があったはずです」
「どこにあるか憶えてる?」

 私は頷き、ひとり二階へと上がった。
 地球儀や父の標本には白い布が被されている。
 そのいびつな山の稜線を崩さぬよう慎重に布の端をまくると、いつか父やリックと天体観測をしたときに張ったテントの中を思い出した。
 いつも窓からしか見ていなかった星空を丘から眺めたとき、それは私の想像を遥かに超え、隅々まで広がっていた。

 未だ消息のわからぬ父と母。地球上に何の痕跡もない…神隠しだって?
 いや、父と母のいたという証なら、この家のそこかしこにあるではないか。
 キッチンでローストチキンを拵え、食事の後には窓辺の椅子に座って繕い物をする母エマの姿。森から摘んできた草花を顕微鏡で熱心に調べ、それをスケッチする父の幻。
 数年経った今でも、この家にはふたりの息づかいが残っている。

「リオ、見つかったかい?」

 リックが階段を上がってくる足音がすると、突然、窓の外で悲鳴とドスンという物音がした。

「なんだ?今のは」

 驚いて固まっている私を守るように、駆けつけたリックが先に窓の外を見た。

「誰だ!」

 恐る恐る一緒に覗くと、外壁の蔓バラが一部剥がれかけ、ガーデンにスカートの花が咲いていた。

「何の音?」

 玄関から飛び出してきたアイビーさまは、我々が見下ろしている先を見て青ざめた。

「あなた!しっかりなさい!」

 アイビーさまが、そのはだけたスカートの裾を直し、倒れている人物の上体を起こそうと苦戦している。

「アイビー、そのままで!僕がそっちへ行く」

🌜️


 居間の長椅子に横たえられた人物を見て、私はいささか混乱した。つい一時間ほど前まで一緒に小径を歩いていた彼女がなぜここに?

「気がついたわ」
 アイビーさまに助けられながら、彼女は上体を起こした。

「オリビアさん」
「……リオ」

 オリビア・グレイの白く乾いた唇が痛々しかったが、同情よりも先に、怒りを伴う困惑を抑えられなかった。

「なぜあなたが僕の家に入れたの?僕と、父と母の家なのに」

 オリビアは何か弁解したそうな表情を見せたが、すぐ諦めたように俯いた。
 リックとアイビーさまは、私達が顔見知りだとわかると、警官は呼ばないからと彼女を安心させ、自分から訳を話すように促した。

「私はオリビア・グレイ。ルイス・ハミルトン教授の教え子です」
「ルイスの教え子…。しかし、なぜこの家に入れたんだ?不法侵入だとわかっているね?」

 コクンと頷いたオリビアだったが、そこには反発心も多分に含まれていた。

「一体どんな理由でこんなことを?」
「失踪したハミルトン夫妻の行方を突き止めるべく、数年前から色々調べていたのです。手がかりになりそうなことならば何でも」
「だからといって、家に忍び込むのは度が過ぎている」
「オリビアさん、単なる教え子のあなたがなぜそこまでなさるの?」

 オリビアはしばらく押し黙っていた。

「失礼ですが、あなたがたは?なぜこの家にやって来たのですか?リオならわかりますが…」
「自分の立場をわかっているのか?」
「リック!」

 苛立ちを隠さないリックをたしなめるアイビーさま。

「私にはちゃんとした理由があります。でもお話しすることはできません。教授との約束ですから」

 初めてオリビアからそんなことを聞く。私は胸がおかしくなるほどのむかつきを覚えた。
 一体、彼女がどんな秘密を父と共有しているというのだ?はたまたこれは、オリビアのはったりか?
 ほんの少しでも心を許しそうになっていた自分が愚かに思えてくる。

「どんな大義名分があろうと、きみのしたことは犯罪だ。私達が警察につき出せばどうなるか…」
「リック、やめて」

「リカルド…」
 オリビアが掠れた声で唐突に呟いた。

「あのリカルドは、一体、誰なの?」

 彼女の不可解な言葉に、私は眉をひそめた。

 開け放たれた窓から、ひとひらの蝶が迷い込んでくる。青ざめる三人の背後を飛び回る黒い蝶は、今思えば、美しい記憶の裏側を辿っていたのか。


🌜️ to be continued… 🌛


 

 

 


 

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