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走る話|フルマラソンという長い旅路の果てに

沿道に掲げられた30㎞地点の表示を目にしてからゴールにあと約2㎞と迫る神戸大橋までの道のりをほぼ歩いたにもかかわらず、やわらかな達成感が、筋肉痛のために手すりを掴まなければ階段の昇り降りさえままならない僕の体をやさしく包んでいる。人生初のフルマラソンはタイム的に見れば散々な結果で、コース全体の4分の1の区間は走れなかった。時間が経つにつれて、もっと挫折感や敗北感に襲われるのかと思っていたが、大会から24時間が経過した今もそんな感情はまったく湧き上がってこない。

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僕が思うにその理由は2つあって、そのひとつめが「そもそも一般参加型のフルマラソンの大会においてスタートからゴールまで一度も歩かずに走り通せるランナーはそれほど多くないんじゃないか?」との考えに至ったら諦めがついた。昨日も35㎞を過ぎた辺りでふと気づけば僕を含めて周りは歩く人ばかり。その頃には後方から追い抜かれることも少なくなって、視界の開けた下り坂の頂上付近から前方を眺めればそんな光景がはるか遠くまで続いていた。

人間が歩く一般的な速度はおよそ時速3㎞、これより少し速めの「急ぎ足」なら時速はおよそ6㎞で、1キロラップで言えば概ね10分ということになる。つまり、この辺が「歩く」と「走る」のしきい値。もっと速く進むには走るしかないわけだけど、フルマラソンは最大心拍数の約85%以下で走ることが理想とされているから、恐らくそこが走る速さの上限。具体的には、おおよその最大心拍数が「220-年齢」の計算式で算出できるので、その値の85%以下の心拍で走れる速度が各個人のマラソンに適したペースになる。

つまり、村上春樹のように毎日走り込んで心肺機能の向上を図る努力でもしない限り、年齢を重ねれば重ねるほど速くは走れなくなるのだ。僕の年齢の平均的な最大心拍数から導き出されるマラソンを走る際の実質的な上限速度は、普段ジョギングする時の1キロラップよりも1分半から2分程度遅い。頭ではわかっていたことだけど、前回出場したハーフマラソンと同様に、今回も高ぶる気持ちを抑えられなかった。

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輻射熱を浴びたときのように身体の芯からゆっくりと湧き上がる達成感に浸れているのには、昨日の最速ラップが40㎞地点以降に出たものであることも大きく影響している気がする。大会本番の約2カ月前から週末に走る距離をほぼ2倍に伸ばし、耐久レース向きの走りをより意識してはいたが、自宅を起点とする周回コースのラスト2㎞はそれまでの平均ラップよりも1分程度速いタイムで走り終えることを心掛けた。これはレース本番のゴール前を想定してのことでもあったし、その日のランニングを気持ちよく終えたいとの想いもあった。そのことが思わぬ形で功を奏した。

30㎞地点を過ぎて以降、頭では「なんとしても走らなければ!」と幾度となく考えたけど、足がまったく言うことをきかなかった。でも、40㎞地点を示す看板を視界が捉えた瞬間に僕の中で何かが弾けた。それまで動かなかったことが嘘であるかのように、ものすごい勢いで両脚が再び回転を始める。こんなスピードで本当に最後まで持つんか?との不安が頭をよぎり、ペースを落とすことも一瞬考えたが、下り坂を利して得た勢いを殺すのももったいないのでそのまま突っ込んだ。そこからは、路上に立ち尽くす人の群れを掻き分けて進む時のような感覚に身を委ねながらゴールまで一気に駆け抜けた。

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ゴールラインを通過した直後、心の中では途中で歩いてしまったことへの後ろめたさと、ラストスパートの高揚感とがせめぎ合っていたけど、その先に待つボランティアの大学生から、完走した者に贈られるフィニッシャータオルを肩に、そしてフィニッシャーメダルを首にかけてもらったところで、ゴールできてよかったとの想いが静かに込み上げてきた。厳密に言うと完走ではないが、そんな些末な話など、もうどうでもよかった。たぶん、この場所へ還ってくることに意味があったのだ。長い旅路の果てに、僕はそんなことを思う。




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