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#2 他者の海

 序

 受動的な気分が続いていて、何も書く気になれなかった。そして、追い打ちをかけるように38℃の熱が出た。身体の平衡とともに、ぼくの創造はどこかへ奪い去られてしまったのではないだろうかと思うほど、何も書けない、浮かばない日々だった。下手の横好きでたまに詠む短歌や詩も、ぱったりと書けなくなっていた。


 だから、本を読んだ。目的もなく、文字の海を、思想の海を、そこに揺蕩う人間の海を、彷徨していた。


 他者の言葉、他者の感受性

 いつだって、自分を自分としてしゃんと立たせてくれるのは、他者の言葉だ。こころが弱っているとき、差し伸べられることばの数々。


不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸われし
十五の心              -石川啄木

 あまりに有名なこの歌は、語りつくされた言葉の中の一つだろうか。ぼくはある本の中にこれを見つけて、ぞわっ、としたのである。それは有り体に言えば感動だろうか。言語化できないそれが駆け巡った。この歌を、すでにぼくは知っていたにもかかわらず。

 むずかしい言葉を使わなくてもいい、純朴な感受性で、この世界を捉えること。十五の少年の空へとひらかれた澄んだ眼。寝ころんでいる、という無産性。ぼくはこの歌を自分の文脈に「再発見」したことになる。


  文学の効用は極端に言えばここにある。ポストモダンのイーグルトンという文学者は、人々は、テクストを多少なりとも自分の関心に引き寄せて解釈する傾向があることを指摘したが、この現象を理論化すればそうなるだろうか。


膨大な量の他者によるテクスト、いわば他者の海のなかで、自分に刺さる文学作品なりテクストを見つけられることは、とても幸福なことだと思ったのだった。

 

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読んでいただき、ありがとうございます。

また、読んでくださいね。

〈参考〉大岡信編「第八折々のうた」(1990,岩波新書)

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