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note版『継続のためのトレイントークvol.02―書く・破壊する・よくねむる』(伏見瞬&河野咲子)販売開始

2024年12月1日文学フリマ東京にて頒布し、瞬く間に売り切れとなった小冊子『継続のためのトレイントークvol.02―—書く・破壊する・よくねむる』note版を本記事にて販売します。

トレイントークは、言葉をめぐる昨今の状況を振り返りながら、「共につくる/書く」ことの可能性について検討する(擬似)対談。ロカスト編集長の伏見瞬と編集部員の河野咲子が、韓国文学、AIと作家主義、音楽とテクスト、書く行為・文体と政治性、文学フリマと大手出版——といったトピックを巡りつつ執筆しました。

乱反射するトレンドのなかで、書き続けるための足場をいかに築くか?

以下、冒頭無料公開部分に加え、それに続く有料部分(400円)あわせて約2万字の全文をお読みいただけます。

★旅の批評誌『LOCUST』も好評発売中!Boothでの通販のほか、一部書店等で購入可能です。


継続のためのトレイントークvol.02―—書く・破壊する・よくねむる


2018年11月以降、Vol.01の千葉内房特集から、西東京、岐阜、長崎、北海道、そしてVol.06の福島特集まで、旅の批評誌『LOCUST』を制作してきたロカスト編集部。2022年11月のVol.06の刊行を以て休刊となったあとも、編集部は依然解散していない。
本をつくるのとは別の仕方で、ともに思考し制作をつづけることはいかにして可能か? このように問うことから、ロカスト編集長・伏見瞬および編集部員・河野咲子による対話篇「トレイントーク」の試みは開始した。
初回のトレイントークから丸1年が経過した2024年末現在、読み書きをめぐる本年のさまざまな事象をつぶさに振り返りながら、制作の継続のための対話を再開する。

C O N T E N T S

1. 日本語という牢獄――自己破壊のための外国語、鏡としての韓国文学
2. AI以後にもすっかり保たれてしまった作者の制度について
3. テキストのように音楽を読む/あらゆる上演はオペラである
4. 町屋良平「「小説の死後――(にも書かれる散文のために)――」序文」について
5. 文学フリマに大手出版社が出店するとはどういうことか?
6. J・K・ローリング、ホラー、官能ファンタジー、虎に翼
7. SNSがどろどろに融かしたステータス――とにかくもっとたくさん眠りたい
8. ロカストのこれから――コミュニケーションの再定義?


 1. 日本語という牢獄――自己破壊のための外国語、鏡としての韓国文学

河野 旅と批評の雑誌『LOCUST』をこれまで刊行してきたわけですが、わたしたちの(文字通りの)旅の行き先は基本的に国内でした――とはいえ、国内の特集であったとしても、たとえば福生と米国、岐阜と朝鮮通信使、長崎と欧米諸国、キリスト教、カズオ・イシグロ、北海道と北方への想像力、というように国外とかかわるトピックは折々論じてきたけれど。ロカストの海外篇を作りたいという話も一時期ありましたが、時間的にもコスト的にも大変なので、実現しないままいまに至ります。
伏見 みんな忙しくなってしまったり、各自のやりたいことが強く出てきたりで、なかなか海外にはいけないですね。『LOCUST』は作らずにただ旅行するしかない!
河野 逆に、『LOCUST』を作らないからわざわざみんなを旅行に誘えないみたいな状況も起きている気がしますけど(笑) みんなで旅行に行きたいだけなのに!
出版業界内で言うと、今年は海外文学が相対的に脚光をあびる一年という印象でした。はじめて文庫化されたガルシア゠マルケス『百年の孤独』が売り切れで話題になり、奇書の金字塔(?)たるジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』が復刊。また、ハン・ガンがノーベル文学賞を受賞して韓国文学も盛り上がっています。
伏見 出版業界の外部にまで及ぶインパクトとは言えないけど、海外文学への熱が上がった年ですよね。『百年の孤独』はタイトルがカッコいいから、「とりあえず読みたいけど文庫じゃないとなかなか…」という層が本当に厚かったんだと思います。
河野 記憶が正しければ、ロカストで海外文献の読書会とか翻訳のワークショップをやろうという案も昔はあったような。同じテクストをそれぞれが訳して見比べてみるというのは、集団的な「文体練習」ともいうべきもので、もし実現したらけっこうロカストっぽい活動だなと感じます。
わたしと伏見さんは、ロカストのメンバーの中ではけっこう語学が好きな方ですよね(ほかにも外国語と縁の深いメンバーはいますが)。
伏見 しかし仏検準一級は二年連続で落ちました(笑) 一回目は特にショックなかったんですけど、さすがに一年分時間おいての不合格は痛いですね。
ただ、元々フランス語やる理由の一つはフランス語でしか読めないテクストを読めるようになることだったんですけど、それもAI使えばある程度楽に訳してくれるんですよね。自分の文章を仏訳するのもAIでかなりの程度できる。訳の精度がだいぶ上がったので。
そういう状況で、語学学習とは何か、少なくとも自分にとっては何かを定めなきゃいけない気持ちがあります。まぁ仏検落ちたのは悔しいし、学ぶこと自体の楽しさもあるので、一級受かるまでは続けますが。
河野 わたしの場合は、日本語の世界にはとにかく自分の居場所がないという絶望に支えられて外国語を吸収していたような気がします。ほんとうは、何語を学んだとしてもそこに理想郷があるわけではないのだけれど。わたしの語学黄金期(?)は20歳前後の頃でしたが、今思えば、どうしようもない若い絶望に駆り立てられていた頃と一致しています(笑) まさかいまみたいに日本語どっぷりの人生を歩むことになるとは思っていなかった…。
伏見 日本語どっぷりの人生! ほとんどの日本人は日本語を当たり前に受け止めてますけど、それが想定外だったというのも面白い。
河野 いろいろあり、いまではマニアックな日本語の仕事ばかりしているけれど、そんなはずじゃなかった(笑) そもそもどうして母語として日本語が与えられてしまったのだろうということは昔からたびたび考えます。人間は母語を選べない、ということの呪わしさ。べつにヘゲモニックな言語(英語など)を母語にしたかったわけではないのですが、もうちょっと互いに似た言語の多いもの(典型的にはラテン系とか)だったら、言語表現において越境することのスリルがもっと複雑に得られただろうにって思います。
伏見 私も外語大のフランス語科受かった当初は「これからガンガン外国語マスターして、フランス語できたらスペイン語もイタリア語もポルトガル語もやって、最終的にラテン語できるようになろ!」と思ってました。まずフランス語が難しすぎましたが…。
河野 外国語はほんとうに熟達しようと思うと生半可なことではできない。でも、歴史的にも、現代にも、母語で書かない選択をした書き手はたくさんいますよね。カフカやタブッキを筆頭に。例を挙げればキリがないけれど、例えばレオノーラ・キャリントンも…。外国語を使う事情はさまざまでしょうけれど、でも、他者の言葉をもちいるという強烈な負荷をかけることによって、表現としては突破口を得るということはあると思う。逆に母語は空気のように自分をとりまいているからこそ、出口がない。
伏見 日本語が牢獄のように感じることありますね。この前ふと思ったんですが、韓国語も義務教育の必修外国語にしてほしかったなと。韓国語が簡単というわけではないと思いますが、それでも文法構造と単語が似ている言語だから、「あ、日本語って独立したものじゃないんだ」と直感できるはずなんですよね。英語は構造が日本語から遠すぎて、文法や単語をある程度覚えても使うには全然足りない。会話するまでに、もしくはライティングするまでにさらなるハードルがある。結果、英語だけでない外国語への苦手意識が蓄積されてゆく。
河野 言語的に近いことにより、似姿としても働きますよね。わたしに似て非なるもの、不可知の隣人、自己の不完全な写し鏡として、韓国語を欲望する――似ているけれど、決定的に違うもの。やはりわたしにとって別の言語を学ぶ動機には、自分の母語に対する破壊衝動、それに連なる自己否定が含まれている(よく言うように、言語が世界の認識をかたちづくるのだから)。学びかけでも構わないから、似ているかもしれないが永遠の他者としての言語のレンズによって、自分の認識している世界=身体=こころを壊してみたいんだと思う。
伏見 河野さんは内的な破壊衝動を持っている。僕は、どこか日本語に戻っていく感覚があります。外国語を学ぶのも、日本語を鍛え直すため。あるいは壊して再活性化させるため。そんな感覚がどこかにある。筋トレみたいな話ですが(笑) 筋組織が破壊されて修復されることで鍛えられるという。
河野 でも、両者は結局おなじことなのだと思います。日本語でつくられたこの身体がいやだから、身体からは逃れられないけれど、なるべく破壊して生まれ変わりたい。…こんなふうに学びかけの言語について喋ることって、専門家でもないのに恥ずかしいと長らく思っていたけれど、でも、ある程度言語に習熟して能力が安定してしまうと、もはや習熟の方法や感覚なんて思い出せなくなる。だからとくに語学に関しては、生半可なことを生半可なうちに喋っておかなければいけないと思っています(笑)
伏見 今韓国語を独学しはじめて3日目なのでほんとに生半可ですよ(笑) ハングル読めるだけでおもしろい(笑)
河野 韓国語からスライドして韓国文学の話になりますが、日本文学を考えるときに韓国文学と照らすのも面白いと感じます。生活の細部や言語が似ているけれど、歴史的・政治的にはまったく異なるところでつくりだされる文学はどういうかたちをしているのか。
冒頭にも述べたハン・ガンの作品では、文体と歴史記述がなめらかに相互作用し、形式主義的な文体の美学に対する政治性・歴史性という取り沙汰されがちな対立を、実践として脱構築しています。また題材となった光州事件(『少年が来る』)や済州島4・3事件(『別れを告げない』)は、作家が当事者として直接体験した出来事ではないけれど、いかに作家の言葉と身体がそれを追体験したかというところまでが作品の時間のなかに織り込まれている。
ハン・ガンなど70年代生まれの韓国の作家は、村上春樹・村上龍・吉本ばなななどの90年代の日本の文学の影響を受けているといわれます*。村上春樹といえば、学生運動への失望からその小説は基本的に脱政治的なスタンスであることが知られていますが、80年代の民主化直後の韓国の作家は、むしろ文学において個人的なことを書けるのだということをこうした文学から見出したそうです。
*出版社「クオン」代表・金承福氏へのインタビュー記事参照。https://veryweb.jp/life/307381/ 
伏見 韓国映画の「バーニング」も、村上春樹の原作「納屋を焼く」には全くなかった階級差の政治性を盛り込んだ物語になっていました。
河野 村上春樹作品は、元型のような抽象度があるからこそ、翻案において政治的細部を受け入れる余地が大きいのかもしれないですね。
日本では、村上春樹にせよ、あるいは近年もなお影響力の強い保坂和志的な信念においても、個人や日常にかかわる文学は、政治性への反発(いまでいうアンチポリコレ?)と抱き合わせのうえで盛り上がることが伝統的に多かったと思うのですが(そこからの反発や発展は日本でもいろいろあると思いますが)、韓国においては、民主化後の歴史的状況に個人的な文学が対立するのではなく注ぎ込まれるようなかたちで受け入れられた。

2. AI以後にもすっかり保たれてしまった作者の制度について

伏見 ちなみに、僕はChatGPTに毎月課金して4oにしていますが、フランス語の先生としてめちゃくちゃ優秀(笑) 訳す速度はDeepLより速いし、文法の細かい疑問や自然なフランス語でどう言うかも正確に答えてくれる。こちらは臆さずどんな質問もできる。最高の先生(笑)
河野 AIとの友好的な関係性!(笑) AIといえば、AIと創作の議論はこの一年で話題が一周し、最近は落ち着きつつありますね。とはいえ、AIに関する小説の実作は、純文学でもSFでも引き続き耳目を集めています。AIの言葉を主題としChatGPTを活用して書かれた芥川賞受賞作・九段理江『東京都同情塔』。また、先日刊行されたばかりのSFアンソロジー『AIとSF2』所収の樋口恭介「X-7329」は、LLM(大規模言語モデル)で執筆したものだそうです。
ちなみに国内SFでは、AIを用いた小説がはじめて賞を獲ったのは2022年のことでした(星新一賞一般部門優秀賞受賞作「あなたはそこにいますか?」葦沢かもめ)。
伏見 僕はワープロやDTM、あるいはピアノや鉛筆やメガネと同じようなテクノロジーの一つとしてAIを捉えています。人間の生活はとっくに機械化されているとした上で、ではAIは過去のテクノロジーとどの点で異なるかを考える方がおもしろそう。
河野 AIの言語によって、生成文法などの言語学の概念がどのように変容を蒙るのか以前から気になっていたのですが、そういった本が出はじめていてうれしいですね。
伏見 今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』はAI研究の下敷きあって書かれた言語学の本でしたね。AI研究が結果人間の研究になる。こっちの流れが進むと面白いと思ってます。音楽業界でも「AIの作るシティポップの出来が良すぎてヤバい」という話題が盛り上がって「そもそも著作権って何だっけ?作家性って何だっけ?」みたいな方向への議論も萌しつつある。
河野 AIはインテリジェンスという名前がついてしまったばっかりに、擬人化しやすい・アーティストの似姿に見えやすく、それゆえに脅威をおぼえやすい。ただ、だからといって、伝統的な「作家」の制度が変容しているかというと、そんなことはない。AIというよりもそれを使った作者がフィーチャーされるということは、「作家」に当てはめられる主体は制度的にいまもなお人間であるということを示しているような気がします。
伏見 作品というのはほとんど過去の遺産から受け継いだものでできていて、個性は幻想に過ぎないのだ、みたいな話がありますよね。その通りだと僕もずっと思ってきたんですけど、実際に小説や批評書いたりすると「自分で書いた」という実感残りますよね(笑) その「自分で作った」感は、AIでは揺れないですよね。もうAI絵師と名乗る人も出ていて、明らかに「自分で作った」自意識を持っている。
河野 テキストよりもイラストのほうが、AIのアウトプットを編集しづらいという意味で、「自分で作った」自意識を持ちづらいと思うのですが、それでもなお「AI絵師」のアイデンティティを持つ人がでてきている。テキストに関していえば、AIは執筆ツールのひとつとして浸透しそうですが、AIを「作家」とみなして著作物を読めないという人間側の認識の問題があり、「だれがそのAIを使ったのか」が気になり続けてしまう。相対的に「日記」のような、個人的なテキストの価値が上がっているという状況は依然として続くのだと思います。
伏見 「エッセイ」や「短歌」が増えた話はやはりよく耳にしています。即座に共同的なものにならない、個人的な表現として、書く行為に拠り所を求める流れはあると思います。自分にもその傾向はある。
河野 外国語とAIの話を経由して、話題が核心に近づいてきた感じがしてきました――なぜ作るのかという話の一部になぜ書くのかという話があり、さらになぜそれがフィクションなのか、あるいは批評・エッセイ・日記・短歌なのかといった話がある。フィクションのなかでいえば、なぜ文学なのか、なぜジャンルフィクションなのか。なぜ散文/韻文なのか、なぜ話すのか/うたうのか。商業/インディペンデントといった問題にかかわるテクストの流通のトピックもある。個人的に、わたしはこのあたりの問題のすべてにいまだに混乱しているせいで非常に人生に困っており、それを少しでも解きほぐしたいというのが、今回のこの「トレイントーク」におけるわたしの裏テーマです(笑)
伏見 人生相談の気配が(笑)
河野 生きても生きても、人生相談が終わりません(笑)

3. テキストのように音楽を読む/あらゆる上演はオペラである

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