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エミリアーノに静寂はいらない(4890字)


「僕らはみんな髪を伸ばしているんだ。こんな風にね!」
 チームから支給されたスポンサー企業のロゴ入りヘアバンドを取ると、日差しを浴びたモカブラウンの長髪から生命力に溢れた若者特有の爽やかな汗が香った。練習場を出たエミリアーノはトレーニング室までの僅かな距離の間で記者たちに囲まれると、質問攻めにあった。
 赤煉瓦の屋根が並ぶ街並みを中心地に向けて進んでいくと、市庁舎の東の丘に収容人数五千人のスタジアムを備えた総合運動公園がみえてくる。イタリアのプロ二部リーグに所属するサッカークラブ〝UCロマーニャ〟の本拠地だった。この小さなクラブは今、イタリア全土から注目を集めつつあった。だが、その対象はトップチームのプロ選手たちではなく下部組織プリマヴェーラの若者たちだった。
「髪を伸ばしている理由は?」
「チームの決まり事なんだ。そうだな……偉大なる獅子王レ・レオーネにあやかっているのかもね」
 はにかみながら十代らしい笑顔をカメラに向けると、エミリアーノはそのまま室内へと消えていった。

「まるでスターだな、エミリアーノ坊や! いずれはビアンコネーロ行きかね」
 トレーニング室に入るとガラス越しに彼をみていた老夫が話しかけてきた。UCロマーニャのスタジアム内に併設されたジムは街の人々も利用可能で、練習を終えた選手たちが横でトレーニングをすることも珍しくなかった。
「止めてよ。プロでも何でもないんだ」
 UCロマーニャの下部組織はリーグ戦で無類の強さをほこっていた。ピッチ上の十一人がまるで一つの生命体であるかのように連携が取れたプレーを披露し、対戦相手を圧倒していた。特にサイドバックを務めるエミリアーノと同サイドでコンビを組むウィングのステファンはチームの強力な武器だった。今シーズンは未だに無敗を継続していて、いまや国内の様々なプロクラブが彼らの試合にスカウトを派遣していた。気の早い地元紙はこの若きプリマヴェーラたちを未来の代表選手アズーリだともてはやした。
 トレーニングを終えたエミリアーノは、自転車で丘を下り中心街のカフェで停車した。街は元々、自動車の部品などを扱う機器メーカーが立ち並ぶ地域だったが、現在は医療機器や建設機械など様々な部品の製造を行う企業が進出する国内屈指の工場地帯となっていた。地元の有力企業が多くスポンサーについている為、UCロマーニャは規模の割に潤沢な資金があり、施設や育成部門への投資を多く行っていた。その結果が今、開花しつつあった。
 エスプレッソを注文しテラス席から街を眺めていると、見覚えのある顔が彼の前を通り過ぎた。去年まで同じチームにいた二つ年上のマルコだった。彼はダンボール箱を台車に載せ、店の裏口の方に去っていった。育ったクラブでトップチームに昇格できるのは二十人に一人程度、下部組織の選手たちに春が来るのは低い確率だ。それでも他のクラブと契約できればよいが、そうでなければプロ選手への夢は絶たれる。マルコもその一人だった。エミリアーノは自分の年齢を考えると、今年が勝負の年だと感じていた。
 ここでプロになる。チームは好調だし何よりこの街を愛している。エスプレッソを飲み干すと彼は寮に戻った。部屋に入ると先に帰っていたはずのステファンの姿がなかった。ベッドで休んでいると廊下を走る足音が近づき、扉が勢いよく開いた。
「ミオ・エミリアーノ! これをみてくれ!」
 黒いカーリーヘアのステファンが持ってきたのは一部リーグのチームとの契約書だった。
「さっき会長から連絡があってクラブハウスに呼ばれたんだ。そこで急に決まった!」
 エミリアーノは嬉しさと寂しさの混じった複雑な感情にかられた。ステファンの祖父は隣国で発生した内戦から逃れイタリアへ渡っていた。その為、あまり裕福でない家庭で育ったステファンはプロへの気持ちが人一倍強かった。それは同じサイドで後ろから彼のプレーをみていたエミリアーノにはよくわかっていた。
「やったな! しかも一部リーグじゃないか。活躍すれば外国でもプレーできるぞ!」
「ああ、神に感謝だ!」
 ステファン移籍のニュースはますます〝春〟たちへの注目を高めた。支払われた移籍金は十代の若者に払うには高額で、期待の高さがうかがえた。だが、華々しくデビューしたステファンはそれまでのプレーが嘘かのように活躍が出来ず、サポーターやメディアは不満をつのらせていった。スタジアムでは容赦ないブーイングが響き、試合後には厳しい記事が毎週のように書かれた。初めはステファンを擁護していたチーム関係者もやがて獲得は早すぎたと暗に失敗を認めた。

 エミリアーノがステファンに会うのは久しぶりだった。街を歩けば人々から罵声を浴びる状況を考え、彼の住んでいるマンションで会うことにした。指定された住所に着くと建物の立派さにエミリアーノは驚いたが、それ以上にステファンのやつれた表情に衝撃を受けた。ステファンは寮母が持たせた手製のパニーニを食べると幾分か表情が和らぎ、二人は昔話に花を咲かせた。だが寮に居た頃とは違い、黙る時間の方が多かった。日が暮れる頃になるとエミリアーノはステファンを誘ったが彼はいつものように乗り気ではなかった。
「そうだ! ボールでも蹴りにいこう。森を抜けたら確かグラウンドがあっただろ」
「いや、いい……」
「こんな夜なら人もいないさ。きっと気分転換になる」
 カラマツの森を抜けると街灯の光が薄くなっているハーフコート程のグラウンドに出た。ステファンはUCロマーニャで支給されたヘアバンドで髪を留めると、感触を確かめるようにボールを足裏でこねはじめた。
「まだ持っていたのか。新しいの買えよ」
「あの頃が楽しかったから捨てられないんだよ……ロマーニャに帰りたい」
 小声でステファンがもらした。ボールを奪ったエミリアーノは奥まで走り、強いパスを蹴った。
「まだこれからだろ」
「わかってる。冗談だよ」
 その時、エミリアーノの脳裏に奥の森で首を吊るステファンの姿が不意に浮かんだ。二人は夜通しボールを蹴り合った。
「ちょっと寄っていいかな?」
 家に戻る途中、ステファンは帰路を外れて路地裏に入っていった。しばらく歩くと教会が現れた。そこで彼は祭壇に向かい祈りを捧げはじめた。しばらくして目を開いたステファンはどこかすっきりとした表情になっていた。
「昔から熱心だな」
「極論をいえば、人生において神以外と話す必要はないと思う。他の人間は全て俺自身には関係はないからな」
 エミリアーノは胸が苦しくなった。
「何かを決断する前には必ず対話をする。気持ちを神と共有するんだ。その結果がどうなろうと、それは仕方のないことだ」
 二人は互いを強く抱き締め合って別れた。数日後、首を吊ったステファンが森で発見された。エミリアーノが怪我以外で練習を休むことはこれまでなかった。部屋から出ることもなかった彼を、クラブはトップチームの医師に診せることにした。診察室に入ったエミリアーノは、虚ろな目線で身体を震わせ、懺悔室であるかのようにあの夜の事を早口で話しはじめた。
「俺があんなことを思わなければ、グラウンドに誘わなければ、ステファンはもしかしたら……」
 医師の顔が急に暗くなった。
「そんなことはない。君のせいでは、決してないんだ」
 外に出た医師は誰かと話をしていた。しばらくして入ってきたのはメインスポンサーの取締役も務めているクラブの会長だった。
「エミリアーノ」
 会長は若者の頬に優しく手を添えた。
「ステファンの件は実に残念だ。だが君のせいではない。あの時、頭に浮かんだのはステファン自身がそう思っていた・・・・・・・からだ」
 困惑するエミリアーノの前で会長は高級スーツのポケットからヘアバンドを取り出した。
「これは我が社とクラブが共同で開発しているデバイスだ。装着している者同士の脳内のイメージを共有させることができる。つまりステファンはあの時にもう死について考えていた。君はそれをたまたま受け取っただけだ」
「……なぜ、そんなことを?」
 エミリアーノは混乱しながらも必死に言葉を絞り出した。
「この事業が上手くいけば、我々はスピーディーで連携の取れたプレーを披露できる。見応えのあるショーとして世界中から観客を呼ぶことが可能になる。それこそ、カルチョにおいて最も重要なことだ」
 ヘアバンドはネットワークを利用した非侵襲型のBMIブレイン・マシン・インターフェースで、エミリアーノたちのプレーは神から与えられた才能ではなく髪から送られた技術によるものだった。
「気に病むことは何もない……そして本題だ。次の試合後にUCロマーニャのプロ選手として君をトップチームに招きたい」
 会長はエミリアーノの前に契約書を差し出した。
「ただし、クラブの不利益になる言動は慎むことが条件だ」

 祭壇でミサの準備をしていた神父は扉を一瞥すると席を外した。一人になったエミリアーノは神との対話を試みた。
――どうするべきなのでしょうか。
 深閑とした堂内には何も響かない。その静けさの中で彼の葛藤が整理されていく。会長の考えこそサッカーの本質? これが幼い頃から憧れたプロの世界? あの感覚が偽りなら結局通用しないのでは? ステファンのように……
 沈黙は続く。エミリアーノから放たれた問いは、次第に誰もいない無音のフィールドで構築ビルドアップされていく。
――彼に死を薦めたのはなぜですか。
 何度も縦横無尽にピッチを往来した思考は、遂にネットを揺らした。
 ふと、ある考えが浮かんだ。それは神の囁きではない、彼自身から湧き出たものだ。
 神もまたヘアバンドと同様に、一つの技術なのではないか。ステファンはそこに飲み込まれたのだ。ヘアバンドに依存している私たちのように。そして会長やクラブもある意味で飲み込まれているのだろう。本来、技術とは使いこなす為に存在しうるものだ。なぜなら、それは私たち自身が生み出したのだから。
 扉が開き、ミサに参加する人々が入ってきた。彼は会釈をして集会堂を後にする。もうエミリアーノに静寂しじまはいらない。

 スタジアムは満席だった。クラブの応援歌チャントが鳴り響き、ロッカールームの士気が高まる。エミリアーノが現れるとチームメイトたちは驚いた。長髪を切り落とした彼は、円陣の和に入るといつも通りチームを鼓舞した。試合開始前にはステファンへの黙祷が捧げられた。僅かな静寂の後、スタジアムは主審の笛と同時に熱狂に包まれた。
 右サイドを担うエミリアーノは明らかにチームの足を引っ張っていた。仲間たちのプレーがこれまでのようにわからない。彼はピッチ上で独りだった。仲間から声がかかる。
「左でボールを回して相手を引きつけよう。敵が奪いに来たら右に展開する。そこで一対一を仕掛けろ。お前ならいける」
 味方のプレーは完璧だった。大きく展開されたパスがエミリアーノに通ると、相手選手と一対一になった。中に切り込むふりをして相手の重心を内側にかけさせる。その瞬間にボールを足の甲で逆に蹴り出し、相手を抜き去る。サポーターの声が大きくなった。
 それを見越していた味方が囮の動きで相手を引きつける。目の前のコースが開いた。今、彼の前には誰もいない。そのまま緑の芝を駆け上がり、ゴール前にクロスを放り込む。鋭い弧を描いたボールは仲間の頭にぴたりと合い、ヘディングシュートが放たれる。ゴールキーパーが横に飛び、ボールに指先が触れた。軌道の変わったボールは勢いを失ってポストに当たった。そのまま跳ね返ると、ゴールへ吸い込まれた。
 スタジアムから歓声が上がり、シュートを決めた選手とエミリアーノの名前がこだまする。十字を切って祈りを捧げると仲間が駆け寄ってきた。
「珍しいな、エミリアーノ。信心深くなったのか」
 彼は味方を軽く小突いた。
――なぁ、アマート・ステファン。みてるかい?
 エミリアーノは天に語りかけて自分のポジションへと戻る。歓声はまだ止まない。【了】

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