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サイコパスの頭ン中

 どうも。最近母に、「子供の頃、僕の歯磨いたことある?」と聞いたら「1回くらいはあると思うよ~」と言われた銀歯16本のとまよこ りゃんシーです(※先天永久歯欠損)。

 神経発達症と言うものを、分かりやすく説明するための例えをよく考えているのですが、とりあえず今日は2種類ご紹介したいと思います。

 ひとつ目は「電球」に例える方法です。外部からの刺激を上の電球だとすると、そこから脳に神経を通って伝達される刺激が下の電球だとします。健常者はこのような状態だとすると、

 発達障害ではこのように、「脳内に伝達される刺激が足りていない」と説明できるのではないでしょうか。

 このように、外部刺激に対する脳内の刺激が少ない感覚です。だから、無感動とか無為自閉と呼ばれているわけですね。サイコパスって言わないでほしい…ちなみに統合失調症の場合、この刺激が増えることになります。

 次にADHDの説明です。ADHDの短期記憶は、「ウィンドウの大きさ」と言うと分かりやすいのかな、と思います。例えば、以下が健常者のワーキングメモリーだとすると、

 ADHDがこのくらいって感じ。枠外に出た文書はもう残っていないので無かったことになっちゃう訳ですね。カレー食べたかった事忘れてるし。

ここまでひどくはないです

 ところで挫折してからずっと、自分の何がいけなかったんだろうかと考えていたのですが、最近分かったかもしれません。
 発達障害の生き方って、3種類あるわけですよ。
 まず、「発達障害」として障害者として生きる道。
 次に裏社会とかで使い捨てられる存在。或いは媚び続ける存在。
 そして「2E」として特化型人材となる方法。
 両親は3番目だったんですよ。だから自分も当然のように「2E」の要素を持ってると思い込んでたんですよね。
 それが間違いだったのかなと。
 両親の悪いところをブレンドして劣化したという感じです。

 なんか、だから、なんの取り柄もないのに「プロ意識」だけはいっちょまえ、みたいな部分があったんですよね。それが現実と解離していたかもしれない。だから見放されたのかなと。
 ADHDにも良い所はたくさんあると思い込んでたように思う。でも現実、そんな仕事はないんだよな。母がADHDを持ちながらもやれてたのは体力があったからだと思う。

 まあ、とにかく救いが漫画だけだったので、漫画の世界を鵜呑みにしていた部分はあります。

 高校生の頃は数学の勉強ばかりしていたけど、大学に入ってぱたりとやめた。数学に対する劣等感と言うか、やっぱり理系文化に対する劣等感もあった。自分は理系ではないという感覚。それは父にはないもので。なんだろうな。そこまで理学も科学も好きではなかったのかな。何か、そういう世界で人生を終わらせることがひどく退屈な感じもあったし、のめり込むほどの何かを持ってなかった。愛に飢えてたからかもしれない。白衣や作業服を着て、研究談義を交わす人たちの中に入れる自信がなかった。それが大きいんだと思う。数学者と言うか、一人で思考実験だけして遊んでいるような生き方なら出来るかもしれないけど。てか今まさにそれか…。そういう意味では僕は今一番望んでいた生き方をしていることになる。
 じゃあ母のように芸術家として生きられるかと言うと、言語能力がなくてムリだった。やっぱり、言語能力がないのが原因かもね。

 自分が(今で言う)2Eだと自負したのはいつがキッカケなんだろう。ああ、そうだ。あれだ。小学2年のときの図工の授業で、『ふしぎな木』という課題が出た。先生はお手本を描いて黒板に貼ってた。それは木だけど山みたいに盛り上がってる、「木って言うか山だろ」みたいな絵で、タイトルを読まなければ面白さが伝わらないような、今考えると作品的にはイマイチな絵だった。周りの子はみんなそれを真似した。ただ色を変えただけで、みんな「山」を描いた。それが正解だった。忖度を知らないのは僕だけだった。僕だけがモジャモジャで迷路のようにうねった木を描き、担任の先生にとても褒められ、父が額に飾ってくれた。教室の後ろの壁一面に並べられた「山」の絵のなかに、1枚だけ「ふしぎな木」の絵があったのが僕の最隆盛期だったかもしれない。大学3年くらいになるまでその絵はずっと実家の廊下に飾ってあった。父は、僕の描く絵の独創性を褒めてくれていた。作品をタンスに仕舞ってくれたりしていた。多分、あれがキッカケだと思う。芸術の世界では、変わり者であればあるほど褒められるんだと学習してしまったんだね。だから、変わり者の僕は将来ものすごく褒められるに違いないと思ってしまった。先生の言う事を聞かなければ聞かないほど褒められると学習してしまった。あれが今思えばターニングポイントで、僕はその記憶をずっと引きずってたから生きづらさを抱えていたような気がする。僕には「何か」があるんだと、その時の自信だけを頼りにして頑張っていたから。本当はただ忖度ができないアホなだけなのに。

 とにかく「何になりたいのか」を決められなかった。父のように科学と決めることも、母のように舞台芸術と決めて進むこともできなかった。一応「漫画家」だろうなとは考えていたけど、あわよくばゲームも作りたかったしボイスドラマも作ってた。声優養成所も通ってたしボーカル教室も通ってた。こんなの全然「2E」じゃないよね。そう、僕は2Eじゃなかったんだ。ごく一般的な発達障害だった。それに気付けなかったのが大きなミスかもしれません。

 父は実力はあるけど敵の多い人だった。僕は父の元に生まれ、否応無しに父の「傘下」として育てられた。それでも僕が父のようにならなかったのはもちろん「ギフテッドじゃなかった」のもあるけど、母や小学校がちゃんといじめてくれたおかげでもある。そういう意味ではちゃんと反抗期来てた…のかな。まぁ高校卒業と共に家を出たのは紛れもなく反抗期。父も母も2Eだけど、父はそのうえにメンヘラ気質があって、相手が自分のこと見てくれてないとヒステリーを起こすような人間だった。あんな人間を尊敬していたと言うのが最大のミスだと思う。母は母でプライドが宇宙より高いしネグレクトだし話通じないし子供を所有物だと思ってるしもう……。まぁだからこそ「お受験」させてくれて、その結果スパルタ教育受けていじめられて目が覚めた部分は有難かったと言えるかな。

 絵を描く気力が沸かない。京都でたくさんの芸術作品に触れたら、「自分が描く必要ないじゃないか」という気持ちになって、自信なくしてそれから一度も描いていない。便器に「泉」って名前付けて飾るくらいしか出来ないよ。でも、そんなことをしたって楽しくないしな。

 いかがでしたでしょうか。文章のGIF作るとき素で手紙ポストに出すこと忘れて3回作り直した。もうやりたくない。

 それでは、とまよこ りゃんシーでした。

発達障害なりに色々考えて生きてます。応援していただけると嬉しいです。