065. コロナ禍でも捨てられなかったゲーテの本
bonsoir!🇫🇷 毎週金曜日更新のフランス滞在記をお届けします。
実のところ、あまりこのプロヴァンスの記事に入ってから筆が進まない。それはきっと心の中に、書いてしまったら何かが終わってしまうという感触があるからだ。
しっかり味わって終わりにすること。
まだ言葉にせずそっと胸の内に留めておきたいこと、の間で気持ちが揺れるのを感じている。
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2020年2月某日。
新婚旅行ぶりにプロヴァンスを訪れ、とても懐かしい景色と心を洗われるような夕暮れに胸を撫で下ろしたわたし達。その日の夕飯はペンション・スカラベのご夫婦のご厚意で夕飯のおもてなしを受けることに。
そこでご馳走になったのはまさかの手巻き寿司。フランスで手巻き寿司が食べられるだなんて夢にも思わなかったわたし達は感激。大皿に並ぶツヤツヤとしたお刺身を前に、寿司好きの娘からは自然とため息がもれた。寿司桶に入ったツヤツヤと光る酢飯に香りの良い海苔。はて、ここは日本だったかしらと思わず錯覚してしまうが部屋は立派なフランスのお家。後ろには暖炉があり、クラシックのCDや書籍がたくさん並んだ立派な本棚。視線の向こうに目をやると制作途中の絵画や筆や絵の具が並んでいた。ここはリビング兼、ご主人のアトリエなのだ。
ところで、フランスはじめヨーロッパ圏ではカルパッチョなんかはあれど、そもそも魚を生食で食べる文化がない。一体どうやってこんなに多種類の魚の切り身を・・?と思い尋ねると、「え?どうやってって、市場で買ってきておろすのよ」とサラリと返されてしまった。ちなみに、テーブルにちょこんと上品に並んだ茨城県民も唸らせるような美味しい納豆も自家製らしい。何でも、かつてパリに住んでいた時に奥様の作る納豆があまりにも美味しいのでパリの高級ホテルから依頼されて自宅で大量につくっておろしていたこともあったのだとか。
「ないと自分で何でも作るようになるのよね!」
そうからりと笑うスカラベの奥様。そういえば、今日ここについた時に頂いたとてもめちゃくちゃ美味しい和菓子も自家製らしく、何でも作れるようになっちゃう、のレベルがすさまじく高くてただただビックリしてしまった。
食事が進んできて、どんな文学作品が好きなのか、という話題になった。ご主人はクラシックや文学作品が好きでとても博学だった。そして、まもなく日本への帰国を控え、家にあるものを整理しているらしいのだが、本やCDがなかなか整理できないから欲しいものがあったら持っていってくれないかとおっしゃる。暖炉の脇を固める立派な本棚の中にはたくさんのCDや古書が並んでいるけれど、それも一部で、かなりの量を人にあげたりしたらしい。それでも追いつかずに泣く泣く暖炉で燃やしたりしているからできたらもらって欲しいのだ、と。
わたしは文学作品には明るくはないけれど、ミヒャエルエンデやヘルマンヘッセなどのドイツ文学は好んで読んでいた時期があり、ゲーテのファウストはいい訳のものがあったらまた読んで見たいと思うと伝えると、ご主人の目の色が変わった。そして夕飯後、ペンションの庭の物置に連れていってくれた。扉を開けると古本屋さんの懐かしい匂いがした。そして大量に積まれた古書の中には、ゲーテ全集があった。
「ファウストはないけれど・・・。好きだったら全部持っていってくれ」
どれも魅力的ではあったけれど、わたし達も日本に荷物を持ち帰らなくてはならない。そこで、形態論について書かれているものを何冊か持ち帰ることにした。高屋さんからこの本をもらった、というのがとても嬉しかったのだ。
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時は経ち、2020年3月。わたし達はコロナ渦による国境閉鎖と飛行機が飛ばなくなることを危惧し、予定を前倒しして日本への帰国を早めた。船便で旅の土産をいっぱい送って日本で到着を待つ・・そんなことを楽しみにしていたのだけれど、当時のわたし達にはそんな余裕はなかった。
「スーツケースで、自分達の手で持ち帰ることのできる分だけ、持ち帰ろう」
そう心を決めて、泣く泣く旅の思い出の品や、入り切らない衣類などを手放した。高屋さんから頂いた本も、そのほとんどを持ち帰ることはできなかった。けれど、どうしても捨てることのできなかった3冊を、スーツケースの中にしたためた。
ゲーテ全集の色彩論が書いてある箇所だった。
これを捨ててしまったらわたしの中からプロヴァンスの、マザンのあの空の色が消えてしまう気がしたのだ。そして、この本があれば、またいつでもあの空の下に戻ってこられる。そんな気がしたのだ。あの本たちは、今では我が家の本棚の一番高いところからこちらでの暮らしを見守ってくれている。そして、ここがまるでフランスに通じる一つの窓のように感じられるのです。ちょうど7年前、高屋さん絵が描いたマザンの田園風景がわたし達の家のリビングにとってそういう存在であった時のように。
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