【ネタバレ】三人よれば文殊の知恵――「劇場版モノノ怪 唐傘」レビュー&感想
解放の「劇場版モノノ怪 唐傘」。大奥を舞台に描かれる情念の妖の物語が描くのは、三人そして三様が見せる文殊の知恵だ。
1.比べ合う地獄
天子様の妻が住まう男子禁制の「大奥」にある日、二人の新人女中がやってきた。才気あふれるアサ、大奥の華やかさに憧れるカメ……同じ日に大奥勤めを始めた二人は意気投合するが、彼女達の評価の差は残酷に開いていく。独自の集団にして社会の縮図でもあるこの大奥に潜むモノノ怪とは……
魔を退ける「劇場版モノノ怪 唐傘」。「つり球」「ガッチャマン クラウズ」等でも知られる中村健治が手掛ける本作はノイタミナでの放送から十数年を経てなお高い人気を誇り、2024年に劇場版が公開される運びとなった。といっても私はTVシリーズは未視聴であり、美術面の美しさに圧倒されるばかりでポカンとしたまま終わってしまったのが初見時の正直なところではある。これでは何も書けないぞ、ともう一度鑑賞した今もなお、分かった気にはまるでなれないのだが――そこで印象に残ったのは「登場人物がみなどこかしら他の人物に似ている、重なっている」ことだった。
いったい本作は二人組の多い作品だ。主要人物たるアサとカメ、幕府から大奥に派遣された武士である三郎丸と平基、大奥における中間管理職の淡島と先輩社員の麦谷……彼女彼らは似たような部分がありつつ決定的に別の存在であり、そのことは実務能力の高いアサが出世街道を邁進する一方で天真爛漫だが不器用なカメがやらかしを重ねる落差からも明らかだ。だが同時に、彼女達が類似や相似の関係にある相手はペアとなる相手だけではない。例えばカメの不調法を麦谷が叱責する場面では淡島はまるで自分が叱られているかのような錯覚を覚えているし、猛スピードで出世するアサを警戒する淡島は後にカメの不調法も彼女の差し金ではないかと見当外れの憶測に取り憑かれ精神の安定を欠いたりする。他にも三郎丸と大奥で寵愛を受ける中臈のフキは共に大友家の出であるため表(幕政)と裏(大奥)の権力は密接に絡み合っているし、舞台の官僚組織的要素が「新社会人あるある」らしさを感じさせるように大奥そのものすら現代社会と類似や相似の関係にあるほどだ。「劇場版モノノ怪 唐傘」では、何かしら似通っていて同時に決定的に別物の存在達が万華鏡のように配置されているのである。
自分と似た者を見た時、私達はつい己と比較してしまうものだ。同期のあいつはあんなに出世したのに自分はうだつがあがらない、以前は自分を贔屓にしてくれていた人が他の人間に目をかけるようになった……自分と相手の2人しかいない時、私達には相手にあって自分にないものばかりが目に付く。だが本作の主人公である薬売りが退魔の剣を抜くためにはモノノ怪の形・真・理の三様を明らかにする必要があると語っているのを踏まえれば、自分と相手しかいない状況はまだ二様止まりであろう。そう、自分と相手の地獄から脱するためにはもう一様が――いや、もう一人の存在が必要になってくる。
2.三人よれば文殊の知恵
退魔の剣を抜くためには、そして自分と相手の地獄から脱するためには3人目の存在が要る。本作においてそれを担うのは物語が始まる2ヶ月前に失踪したという御右筆の女性・北川である。
姿を消したはずの北川はなぜかアサの前に姿を現し交友を結ぶが、彼女から見えてくるのはこれまたアサとの類似だ。幼い頃大奥の行事である大餅曳を見てアサが憧れた御右筆にまで出世した才女であり、そして彼女にも近い時期に大奥入りしたカメのような相手がいた。しかし仕事が下手で覚えの悪い彼女を見ていて苛立つことの増えた北川は御右筆になった日、その彼女を大奥から去らせてしまう。「相手」を捨てて1人になった北川は自分の思うままの道を進めるようになったと考えていたのだが、彼女を待っていたのはむしろ自分が乾いてしまったという絶望的な感覚。最終的に井戸(大奥に入る時に大切なものを捨てさせられる場所)に自らの身を投げて……自分自身すら捨ててしまったというのが失踪の真相であった。あるいはこれは、アサとカメも辿るであろう運命だったのかもしれない。だが、アサは北川の霊と話すことができた。カメとはまた違う、自分と似たもう一人の存在――もう一様と出会うことができた。
アサとカメ、そして北川の3人は、いずれも他の2人に無いものを持つ一方で何かしら他の2人にあるものがかけている。社会的に成功したアサにはカメのような天真爛漫さはなく、豊かな感情を失わないカメには実務能力がなく、アサという理解者を得た北川にはもはや命がない(北川が生きていれば、アサとは御右筆を巡るライバル関係が生まれていたはずである)。仮に3人を1人の人間にしたとして全てを兼ね備えることは不可能であろう。パンフレットの中村健治監督のインタビュー(および山本耕史プロデューサーのコラム)によれば本作のテーマは「合成の誤謬(ミクロでは最適な行動も、合わさってマクロになれば不都合が起きる)」だそうだが、すなわちアサ達3人を1人の人間にできないことは合成の誤謬だ。私達は自分の望むもの全てを手にすることはできないし、そんなことをしようとすればどこかおかしくなってしまう。「人には人の地獄がある」とも言うように、どれほど恵まれて見える者にもどうしても手の届かない何かがある。……だが、それは永遠に満たされない乾きでしかないのだろうか? 否。これまたパンフレットのインタビューによれば、中村監督は今回は問題提起ではなく落としどころを探したという。実際、ラストにおけるアサ達はみな何かを諦めつつも誇らしげだったり嬉しそうだ。それは自分の幸せの所在を定め、他のものを「捨てた」からではない。彼女達が掴めなかった幸せは、それそのものがなくなってしまったわけではない。
カメは華やかさに憧れて大奥に入ったが、彼女自身にはその華やかな舞台に立つ才はなかった。けれど華やかな舞台そのものがないわけではない。大餅曳で筆を振るうアサの姿はこの上なく華やかだし、彼女はきっとこれからもカメの憧れた華やかな舞台に立ち続けていく。
アサは大奥のトップである歌山と二人で話した際、カメともっと遊んだり遅くまで話していたかったという思いを打ち明けている。彼女自身はそれを諦め社会人としての成功を選んだわけだが、遊んだり遅くまで話すことそのものがなくなってしまったわけではないだろう。アサに暇を出され最後には笑顔で大奥を去っていったカメはきっと、アサの分まで遊んだり遅くまで誰かと話す人生を歩んでいく。そしてアサの傍らには北川の象徴である人形があり、命も大切な友人も失った代わりに理解者を得たその人形はいつの間にか笑顔になっている。
3人はいずれも他の2人にあるものが欠けている一方、他の2人が持てないものを彼女達の分まで持っている。そう、私達は望むもの全てを自分1人の手に掴むことはできないが、持ちきれないそれを他人に掴んでもらうことはできる。その時、私達は自分に持ちきれないものを「捨てて」はいない。「乾いて」もいない。自分がそれを得られない寂しさ悲しさはどうしても――モノノ怪が生まれるくらいに――あるが、それでも幸せそのものは確かに存在する。物語の始まりでアサに見とれた門番が最後に見とれたのは、アサにもらったのであろう飾り櫛を身に着け晴れやかな表情で大奥を去るカメの姿であった(同時に、アサの胸元にはカメが大切にしていたお守りの櫛がある)。
合成すれば誤謬になってしまうものはしかし、逆に言えば分解すれば無謬のものからできている。その矛盾が救いでもあることを教えてくれるからこそ、アサ、カメ、そして北川が見せてくれたものは「三人よれば文殊の知恵」なのである。
感想
以上、劇場版モノノ怪のレビューでした。テーマを探すレビューを書いているのでそれが明示されているとどうしようとなってしまうのですが、本作はテーマを聞いても「どういうことなの?」だったので、それを自分の中に落とし込むためにレビューを書いた感があります。ちょっと使い方を変えるとこれまた他人に犠牲を強いたり親による子への期待の押しつけになったり、あるいは格差を肯定「させる」ものにもなってしまいそうですが、刺激的な視座を教えてもらいました。1クールに見られるTVアニメは3本が限界の私の見きれないアニメとか、私にはどうしても立てない観点は他の人に持ってもらってるのだと考えるとちょっと気が楽になります。
PVに目を奪われて劇場に行ってみて正解でした。素晴らしい作品をありがとうございました。
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普段はTVアニメのレビューを1話1話ブログに書いています。2024年夏は「負けヒロインが多すぎる!」「しかのこのこのここしたんたん」「真夜中ぱんチ」の3作をレビュー中。