今日は苦しくない日・私のうつ病と父との別れ その1

久しぶりに書きます。

ずっと書けなかった。書いて気持ちを吐き出したかったけど、そのエネルギーもなかった。

今日は苦しくない日。
なぜなら、金曜日だから。
なぜなら、苦しいことから逃げたから。

私の今の仕事は「先生」です。
期間雇用です。
でも責任は重い。
やらなきゃいけないことがいっぱいある。

もともと脳の働きもエネルギーもよく巡るタイプではないのに、引き受けてしまいました。自分を知らなすぎるにも程がある。
結局、ど素人が引き受けてしまったツケで学級崩壊に近い形にしてしまったクラス運営。日々睡眠時間を削っての書類作成。職場でも必死にやってるのに追いつきませんでした。休日も家に帰ってからの夜も、仕事のことが頭から離れず、眠れない、食べているものの味がしない、苦しくて不安で恐怖でうずくまるようになってしまいました。
休日の方がよっぽど苦しくて、現実逃避するために、とにかく寝ることを繰り返しました。お風呂に入ることもできないくらいでした。

適応障害?
いや、もうこれはうつ病に片足突っ込んでるのではないかと不安になって、すぐ診てくれる心療内科に行きました。
案の定、そうでした。

そんな日々の中で、ある夜、父の様子がおかしくなりました。
夜中、しゃべり続け、時に笑う。
明け方熱は少し高めで様子もおかしくて、母と相談し、救急車を呼びました。

脳炎を起こしていました。即入院でした。

病院に担ぎ込まれた時には状況がわからず怒る父でしたが、2日目の検査の時には、おとなしくなり、意識が混濁してきて、危ないから、と面会を許されました。

もう、寝たきりの段階に入った父がそこにいました。
おととい、一緒にスシローでお寿司を食べたのにな。
あの日、疲れ切った私につられてか、元気のない父が気になって
「おいしい?」
と、なんとか笑顔で聞きました。
私の笑顔にはよく反応してくれた父だったので…
すると、
「おいしい」
と、笑ってくれたんです。

そのやりとりが、忘れられない。

父はそこからよくがんばって、約4ヶ月入院しました。
2週間おきにオンラインでの面会しかできず、でも画面越しの父の様子が毎回違いました。
無理しなくていい、がんばらないで、苦しまないでほしい。
そう思っていましたが、父はがんばっていました。

ある時、オンライン面会で、反応がいい時がありました。
「わかる?お父さん」
「あーーー」
声が聞こえたんです。
看護婦さんが、
「今日は冗談言ったら笑ってくれたんですよ」
って言ってくれて。
「お父さん、もうすぐお正月だからおせち食べようね!」
「あーー」
父が少し笑った気がしました。
我が家のお正月は母のおせち料理が定番で、父はいつも「おいしいな」と言いながらよーく食べていました。
認知症になっても、父は大黒柱で家族みんなの真ん中にいましたから。

お父さんはがんばってる。
もう一度みんなに会いたくて。

そんな風に感じました。

わたしの仕事は相変わらずで、心身は崩れ始めていました。
年末年始のお休みで、休みなのに不安に飲み込まれる日々。
暗い何かに飲み込まれていく私を見て、一緒に暮らす母と息子から仕事を辞めるように頼み込まれました。
私が再起不能になるわけにはいかない。
その思いで意を決し、新年明けて出勤1日目に、「辞めることも考えている」と上司に伝えました。

結果、勤務時間の調整、業務内容の軽減という対応をしてくれることになりました。職場の皆さんにたくさんのご迷惑をかけることになるけれど、もう私には全く自信がなくなって、
「できない」
と、全てから逃げることが精一杯でした。仕事を思うと恐怖でなにもできなくなってしまい、なにも考えない、やらない、ことが生き延びる方法になりました。なにより、脳の機能も完全に落ちていて、仕事自体をこなせなくなってしまいました。

その話をした次の日から業務時間が短縮になり、その日は昼から出勤しました。出勤して1時間ほどだったでしょうか。病院から連絡が入り、父の呼吸がおかしいから、会いに来くるように、という連絡が病院から入りました。

母と一緒に病院に向かいました。
もともと細身の父でしたが、やせ細った父が、大きく呼吸を繰り返していました。
足がもう、冷え切っていました。
でも、手はあったかかった。
小さい頃によく手を繋いでくれた父、あの時と変わらない手の大きさでした。

息をしている父にどこか安心した自分がいました。
面会時間が終わり、家に帰ることにしました。
30分後くらいでしょうか、家に着く前に病院からまた、連絡がありました。
「心肺停止の様子が見られます」
もう一度病院に向かいました。病室に向かうエレベーターの中で、看護師さんが言いました。
「先ほど息を引き取られたんですよ」
「ご家族に会いたかったんでしょうね。でも死に目は見せたくなかったんでしょうね」

病室に入ると、さっきまで大きく息をしていた父が静かに眠っていました。
まだあたたかかった。
お父さん、ねえ、お父さん。
お父さん。
私の中にある、たくさんのお父さんの姿、声、表情。
そして今、目の前で眠るお父さん。

病院の対応は素早く、そこから葬儀屋さんの手配をして、家に帰ることになりました。

そこからの1週間は,弔いの日々であると同時になにか色々をこなすような毎日でした。

父の弔いの日々の中でも、私のうつ状態はなくなりませんでした。

次の月曜日から仕事でした。
代わりに入ってくれていた先生が力量のある方で、子どもたちは充実した日々を過ごしていました。私が関わらないことで、子どもたちが育っていました。

私は、本当にただそこにいるだけの人になってしまいました。
辞めたいし、いなくなりたい。
でもその1歩手前。
みんな忙しくがんばっているのに、なにもできない私。
迷惑しかかけない私。
体は楽になったけど、心はまた新たな重荷を背負いました。

父との別れの日々の中でも、自分のことで手いっぱい。

それは今も続いています。

楽に生きられない私を、励ましてくれたのはいつも父でした。
「お父さん、相変わらずの私だよ。見守ってて」
そうは言ってもわかってる。
乗り越えるのは自分。自分でなんとかするしかないことを。

お父さん。

そう呼びかける時、私の心の中はいろんな思いでいっぱいです。



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