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『夜を乗り越える』 又吉直樹

『夜を乗り越える』。又吉直樹さんの著書です。自身の半生から始まり、本についての愛が詰まった面白い本でした。また、私も愛読している太宰治への言及が多くあり、楽しく読めました。


「僕にとって芸術は、表現をしている人がその行為を信じているかどうか。表現者が作品を信じているかどうか」
この観点に新鮮さを覚える同時に、すっと納得できました。芸術、という名だけをつけて中身の伴わないものが溢れるように見える現代において、この視点は鑑賞する者に必要とされる視点ですね。

無駄な読書はない、無駄な文章はない、と何度も本の中で強調されています。また時間を置いて読んだら視点が変わることがあるから。それは、自分でも実感していることです。読めなかった、面白くなかった本は寝かせよう、と改めて思いました。


純文学の必要性について述べている部分も、心が動かされました。純文学が伝えていること。抜き出してみれば皆が言っていることでも、それでは言葉として弱くて響かない。すぐにイメージしにくい言葉でも、それが強く共鳴する人間にとっては、体重が乗った重い言葉として響く。「疑り深い僕が納得させられました。」と又吉さんは述べていました。

「簡潔な表現では納得できない時があるんです。」
何か言葉が響いた時、
「言葉だけがすごいのではなくて、自分の人生という物語に、その言葉が奇跡的に乗ることができたからなんです。」
だそうです。同じような感覚を私も抱いたことがある、と思いました。

純文学が難解なことについて、
「必要だからやっていることです。一言では駄目なんです。あるいは、省略しまくった上での一言でないと駄目な瞬間もあるのです。」
と述べており、心から共感しました。漠然と感じていて言葉にできなかったこと。まさに言ってくれた!と思いました。

太宰治についての記述にあった
「自分の中で小さくなっていた不穏な感覚にもう一度火をつけたかったという側面もあったのか。」
という文に、何となく引っかかりを覚えました。自分に当て嵌るように思えて、しばらくこの一文から目が離せませんでした。
太宰治と自分を重ねるのは相当愚かな行為とみなされることはわかっているのですが、この気持ち、自分も強く意識していると思ってしまいました。自傷へ向かう気持ちは、この一文の思いが強いです。倒錯的な思考のまま勢いづいてしまうような……上手く言えないのがもどかしいです。そういった共鳴が意図せず起きるのが読書の良いところだなあとも思います。


『桜桃』について又吉さんが考察を深めている部分がかなり印象に残りました。太宰と同じような優しさを持ち、それゆえに捻くれたように見えてしまうかなしい人。桜桃を家族に持って帰ることができない人だからこそ、書けるものがあるのでしょう。私もどちらかというと、帰れない側の人間なので、ちくりと胸が痛みました。

私の大好きな『斜陽』についても、述べられていました。私は主人公の弟の直治の、若さゆえの愚かともとれる閉塞的な考え方が非常に好きなのですが、それを又吉さんは「青臭い」と形容して深く肯定していたので、嬉しい気持ちになりました。
「その年齢の自分が下した判断を疑っていなかったのだと思います。」
太宰がそうであったならいいな〜と願います。

太宰の死について、「その夜だけ乗り越えていたらと思います。」と述べているのところに、愛を感じました。同じように思います。自殺を選ぶ人全てに言えてしまうかもしれないこのこと。そうやって皆生きてるんだろうな。


井の中の蛙を肯定していた部分も、私にはなかった視点でした。
「井の中の蛙で居続けなければいけない、と本気で思っています。」
「大間違いでも井戸の中で声を張り上げ、自分を肩じて一所懸命生きている人間の方が僕はおもしろいと思います。間違っていたとしても、そこにはひとつの真理があります。」
また、
「みんながみんな、思春期の頃の自分を恥じすぎている。その頃の自分の方が、それを恥じている今の自分よりおもしろいかもしれないという気持ちが、僕の中にはあるんです。」
とも。この一連の文章からは、今までに得たことがないような、輝かんばかりの力をもらいました。


これは又吉さんの本からの引用ですが、
「死にたくなるほど苦しい夜には、これは次に楽しいことがある時までのフリなのだと信じるようにしている。
苦しい人生の方が、たとえ一瞬だとしても、誰よりも重みのある幸福を感受できると信じている。その瞬間を逃さないために生きようと思う。」(『東京百景』より)
まさに、又吉さんが純文学を形容したように、又吉さんの体重の乗った言葉だなあと思い、心に沁みました。


読書への、また近代文学への愛情に溢れた、読みやすくあたたかい本でした。おすすめです。

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