小林美代子の「髪の花」
うん、やはり今まで書いたもの、そのうちで取り上げておきたいものは、載っけていこう。
自分にとっては「またか」であっても、何も目にするのは自分だけでないからだ。
──「髪の花」という小説で、56歳で新人賞をとった、小林美代子さん。だが、その2、3年後に「繭になった女」を書いて自殺してしまった。
「髪の花」は、精神病院に入れられた小林さんご自身の体験をもとに書かれた小説。
物語は手紙の文体で、「お母さん」に向かってヒロインが手紙を書き続ける具合で進んでいく。
お母さんのいるはずの家に、その手紙を送るのだが、その宛先の住所は定かでない。ただ、こんな住所だったと思う、そんな気がする、というだけだ。
そして、ずっと返事は来ない。出した手紙は、戻っても来ない。でも、きっと読んでくれていると信じて、「お母さん」に、今日はこんなことがありました、とか、自分は今こんな状態です、といったことを、小林さんは書き続ける…
宛名に書くお母さんの名前も、確かこんな名前だったのでは、という微かな手がかりに過ぎない。自分の名前、自分が誰なのかも、うろ覚えである。たしか自分はこんな名前だったのでは、ということを頼りに、差出人に彼女は名前を書き、手紙を送り続ける。
しかし、彼女が書く、彼女が生活する病院の中で起こっている日常のことは、事実だった。
この作品が発表された時、現実の世の中では「小林同盟」というのがつくられ、精神病院の、あまりに非人間的な患者への対し方、病院の酷いありさまを改善しよう、という動きが起きたらしい。
小林さんは、幻覚・幻聴に、そうとう悩まされていたようだった。いや、実際に見え、聞こえるのだから、幻ではない。小林さんが見て、体験している、現実なのだ。
幻を見る小林さんは、それが「良い幻」であれば、とても幸福そうだ。だが、「悪い幻」は、とことん彼女を苦しめる。ほかの患者も、同じような症状をみせる。そして医者は、彼女たちを「非現実の世界」から「現実の現実」に引き戻そうとする…
精神病というものは、確かにあると私は思う。でも、その「確か」が、ほんとうに確かであるのか、私には分からない。
良い現実であれば、その中にいる自分は誰だって幸福だろうし、悪い現実の中にいれば、苦しい。それが現実でなく幻だと、私には断じることなんかできない。
現実も幻も、それと接した人の体験である。内から発し、外から受け、内に受け、外に向かう個人の体験である。
「精神病者」とよばれる人と、そうでない人との境界線は── 周りから「理解」されない、「何を言っているのか分からない」「行動がおかしい」と見られるところにある、と想像する。
その線を引くものは自ではなく、他である。その線を引く前に、自己と他者の線引きがある。
自己と他者は、常に違っている。違っているものに、更に正常・異常の区分けが為される。
自分を省みれば、私も誰かにひどい迷惑をかけてきたし、人の肉体を害したことはないけれど、人の気持ちを傷つけることは、平然と言ってきたと思う。逆のこともあっただろう。自己と他者が異なる以上、自然のことと思う。
今現在、何を言っているのか分からないようなことも書いているし、心と身体が一致せず、ひとりでいる時に人知れず「異常」な人間になっているような気もする。
想うに、異常と正常は、ほんの数ミリの違いなのだ。それが外に認知されるか、自分の中で納まっているか。
その「違い」の落差、納まりの不具合が本人をひどく苦しませている… 周りと言葉による交通ができない、あきらかに「異常」な行動をとる… そんな場合、何らかの「治療」が必要になってしまう。
苦しむことがなくなればいい。本人が楽になってくれればいい。自分には、そう願うことしかできない── 自分をふくめて。
楽な状態であれば、自殺に駆られる衝動も止む。精神を病む、ということを疑っている私は(これがいちばんタチが悪いかもしれない)、鬱病とか何だとか、そもそも形のない心・精神に、病名という形なんか付けられないと思っている。
誰だって嬉しい時は「躁」になり、落ち込んだ時は「鬱」になる。程度問題と言えばそれまでだが、その程度を大さじや小さじで加減調整できるほど気持ちは思い通りに動かない。
願わくば、カウンセラーや心療内科など、そういう密室めいた場所で「医者」と「心を開いて」人間関係をするよりも、日頃の日常の中に、何でも言い合えるような関係があればと思う。
小林美代子さんは、なぜ自殺してしまったんだろう、と、ざわざわした気持ちで考えざるを得ないけれど、「繭になった女」という小説のタイトルが、何としても心に引っ掛かって、食い込んでくる。