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牛と呼ばれても馬と呼ばれても、ハイ、ハイとうなずく―究極の「争わない生き方」
人の心がわかってしまえば、腹が立つこともない
「争わない生き方」のヒントを考えるシリーズ、番外編です。
前回、『老子』で取り上げた、争いのない世界の話で、ひとつの答えにたどり着いた、といえるでしょう。
個人でみたときに、ここまでできたら、争わない生き方を実践していることになる、と思ったのが、『菜根譚』のある言葉で、それは『老子』の境地に通じるものでもあるので、最後に取り上げることにします。
酸いも甘いも知りつくしてしまえば、人の心がどう変わろうと、気にならない。
眼を見開いて確かめるのさえおっくうだ。
人の心がわかってしまえば、牛と呼ばれようが馬と呼ばれようが、腹も立たない。
ただ、ハイ、ハイとうなずくばかりだ。
その人がどんな心根の持ち主かよくよくわかってしまえば、何と言われようとも、腹を立たることもない。この境地に至ることができたら、そこは「争わない」世界ではないか。
プライドに固執しているから、人からの正当に評価されていたないとか、見下される物言いに腹を立ててしまう。
牛や馬には失礼な言い方になりますが、これは、プライドを捨てて人間以下の暮らしに甘んじよう、ということではないのです。
空威張りしている人間、人を見下すことに喜びを感じている人間から、ひどい言葉を浴びせられても、傷つくことも、憎しみを感じることがない。
自分らしく生きていく、
読み下し文です。
世味(せみ)を飽(あ)き諳(そら)んずれば、覆雨(ふくう)翻雲(ほんうん)に一任(いちにん)して、総(すべ)て眼(め)を開(ひら)くに慵(ものう)し。
人情(にんじょう)を会(え)し尽(つ)くせば、牛(うし)と呼(よ)び馬(うま)と喚(よ)ぶに随教(ずいきよう)して、只(た)だこれ点頭(てんとう)するのみ。
我を馬と呼ばば、これを馬と謂わん
ここに出てきた、「牛(うし)と呼(よ)び、馬(うま)と喚(よ)ぶ」は、「呼牛呼馬」の四字熟語でも知られていますが、著者の洪自誠は、『荘子』天道篇にある老子の「我を馬と呼ばば、これを馬と謂わん」をもとにしています。
『荘子』でどんなふうに語っているのか、みてみましょう。
老子は聖人であるという噂を聞きつけ、士盛綺(しせいき)という人が、遠路はるばるやってきました。ところが、家中乱雑に散らかっていて、人間の暮らしとも思われない。
かれは、さんざん毒づいて帰っていった。
士盛綺は翌日また老子に会いにきて、昨日の非礼をわびた。
「今日になってみると心にむなしさを感じます。これは何故でしょうか」
老子はこう語った。
「あなたは、知者だの聖人だのといったことにとらわれているようだが、わたしはそんなものはとっくに卒業したつもりだ。
昨日、わたしのことを牛だと言ったら、わたしは自分を牛だと認めたろう。
馬だと言ったら、やはり馬だと認めたろう。
人がそう言うからには、それなりに根拠があってのことだ。
それをいやがって逆らえば、いっそう手ひどい目にあうものさ。
わたしは、いっだって逆らったりしないよ」
*『中国古典 一日一言』守屋洋著などを参考に訳出
昨日以下の箇所の読み下し文です。
昔者(きのふ)、子(し)我を牛と呼ぶや、而(すなは)ち之(これ)を牛と謂(い)ひ、
我を馬と呼ぶや、而(すなは)ち之(これ)を馬と謂へり。
苟(いやし)くも其の実(じつ)有り、人之に名を與(あた)へて受けざれば、再び其の殃(わざはひ)を受けん。
それをいやがって逆えば、いっそう手ひどい目にあうものさ。
わたしはいっだって逆らったりしない。
この老子が達した境地。
屈辱的なことを言われても逆らわない。
つまり、争わないことこそが、最良の「賢い生き方」ではないか。
私もそうありたい。
と、ここまでみてきたところで、このシリーズの終わりとします。
呂新吾が著した『呻吟語』、「争わない生き方」に限らず、現代に生きる私たちに示唆に富んだ言葉を多く遺していることがわかりました。
それを読んでいくことにしたいと思います。
これまでの投稿です。