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譲っているだけじゃダメ、一歩高みに立つことも必要――『菜根譚』の「争わない生き方」

羝羊の藩に触る

「争わない生き方」をテーマにしたオンラインセミナーの講師を、務めることになりました(詳細は記事末尾をご参照ください)。
 心豊かに生きるヒントを、先人の知恵からいかに学ぶか。セミナーのアウトラインになることについて、書いていきます。取り上げる中国古典は、『菜根譚(さいこんたん)』、『呻吟語(しんぎんご)』、そして『論語(ろんご)』、『老子(ろうし)』です。

第3回は、前回に続いて、「一歩譲る」ことの効用を説いた『菜根譚』の言葉をみていきます。

まず、一歩譲ることに触れている後半部から。

人と交わるには、相手に一歩譲る心構えがほしい。
さもないと、灯にとびこむ蛾や、垣根に角をとられた羊のように、たちまち進退きわまってしまう。安楽な生活など望むべくもない。

読み下し文です。

世(よ)に処(しよ)するに一歩(いっぽ)を退(しりぞ)いて処(お)らざれば、飛蛾(ひが)の燭(しよく)に投(とう)じ、羝羊(ていよう)の藩(まがき)に触(ふ)るるが如(ごと)し。
如(い)何(かん)ぞ安楽(あんらく)ならん。

 『決定版 菜根譚』守屋 洋著

参考までに、ここに出てくる、羝羊の藩に触るという言い方は、次の故事にちなんでいます。

「羝羊(ていよう)、藩(まがき)に触(ふ)る。退(しりぞ)くも能(あた)わず、遂(と)ぐるも能(あた)わず、利(よろ)しきところなし」。

『易経』

力不足なのにむやみに突進して、抜き差しならない状態になることを戒めたことばです。

やり遂げたい、なんとしても実現したいと思いを抱くことは大切ですが、自分を取り巻く環境もきちんと見据えて、モノゴトを進めよう。相手の意向や事情を理解したうえで始めることが、交渉やビジネスの原則です。
その心構えについて、ここでは一歩を退いて、つまる一歩譲る精神を忘れてはいけない、と説いているわけです。

人よりも一歩高みに立たなければならない

さて、前後が逆になりましたが、この言葉は前半のほうが有名です。

自分を陶冶(とうや)するには、人よりも一歩高みに立たなければならない。
さもないと、ホコリのなかで着物を払い、泥のなかで足を洗うようなもので、とうてい人格の向上は望めない。

人よりも一歩高みに立つことの大切さを、ずばり強調しています。
陶冶とは人の性質や能力を円満に育て上げることで、「人格を陶冶する」いう言い方で使われます。もともとは、陶器をつくることと、鋳物をつくることという意味です。

 日々の行動を振り返ってみると、ここの言葉にあるように、ホコリのなかで着物を払い、泥のなかで足を洗っている状態、目の前の問題対応を追われているのが現実、というところがあります。

読み下し文です。

身(み)を立(た)つるに一歩(いっぽ)を高(たか)くして立(た)たずんば、塵裡(じんり)に衣(ころも)を振(ふ)り、泥中(でいちゆう)に足(あし)を濯(あら)うが如(ごと)し。如何(いかん)ぞ超達(ちょうたつ)せん。

 『決定版 菜根譚』守屋 洋著

この言葉を白文(原文)でみてみると、見事な対句になっていることがわかります。

立身不高一步立、如塵裡振衣、泥中濯足。如何超達。
処世不退一步処、如飛蛾投燭、羝羊触藩。如何安楽。

こうしてみると著者の真意が、「立身不高一步立」と「処世不退一步処」とにあることがわかります。
一歩高みに立つ気構えで人生に臨みたい、ただ高みに立とうするあまり、一歩譲ることを忘れてはいけないですよ、ということもアドバイスをしているわけです。

ここで、後半の読み下し文のところに戻ります。

文中に出てくる、塵裡(じんり)に衣(ころも)を振(ふ)りと、泥中(でいちゆう)に足(あし)を濯(あら)うは、それぞれ故事にちなんでいるので、それをみていきましょう。

塵裡(じんり)に衣(ころも)を振(ふ)りは、『楚辞(そじ)』の次の言葉がもとになっています。

新たに沐(もく)する者は必ず冠(かんむり)を弾(ひ)く。

『楚辞』

髪の毛を洗ったら、かならず冠の塵を払ってからかぶる、という意味です。身の潔白な人であれば、俗世の塵に染まらぬよう細心の注意を払うように心がけたい、という教訓です。

泥中(でいちゆう)に足(あし)を濯(あら)うも、『楚辞)』の次の言葉がもとになっています。

滄浪(ろうろう)の水清まば、以て我が纓(えい)を濯(あら)うべし
滄浪の水濁れば、以て我が足を濯(あら)うべし

『楚辞』

水の流れがきれいな時には冠の紐を洗い、流れが濁っている時は足を洗おう、という意味。
世がよく治まっている時は中央に出て朝廷に仕え、乱世には隠遁していっさい政治にかかわることをやめる。一つの物事にとわれず、時勢のうつりかわりに順応する態度でいる心構えをいったもの、とされています。

嫌われたくないための妥協と、一歩譲るとは意味が違う

「一歩譲る」話が3回続きましたが、洪自誠が説くところは、ここでみたように、譲歩至上主義ということでありません。モノゴトを前に進めるときには、しがらみにとらわれず、取り組む決意や覚悟も必要だということです。

自分が嫌われたくない、責任を取りたくない。そうした理由から、対立を避ける、安易な妥協をする。こうした身の処し方は、あとで自分の利益なる、モノゴトが有利に働くことが期待できません。

一歩譲ることと、ここで挙げた対処法とは本質的に違うことのではないか。それが私の理解です。パワハラとして告発されるのを恐れて、若手社員の遅刻や会議の準備ミスを叱らないことは、一歩譲る行為とは言わないですよね。
 
前回の繰り返しになりますが、ビジネスにおいても、人生においても、勝敗を競うケースや、不利な(厳しい)交渉を迫られるシーンは何度となくやってきます。

争わない生き方を貫く。
 
それはきれいごとだけでは、徹底できないのかもしれません。


ご縁をいただき「リベラルアーツ勉強会」の主宰メンバーに加えてもらい、「争わない生き方」をテーマしたセミナーの講師をすることになりました。よろしくお願いいたします。
【セミナー告知】第5回リベラルアーツ勉強会/中国古典に学ぶ 争わない生き方


これまでの投稿です。
一歩道を譲ることが、なぜ大切なのか――『菜根譚』の「争わない生き方」

人のためにやることが、自分の利益になる――『菜根譚』の「争わない生き方」



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