愛されることが生きる目的の人
以前のわたしです。
いまのわたしが掲げる生きる目的は、
自分自身と関わる相手ともに、納得のいく人生を創造すること。
働き方、お金、健康・心などそれぞれの課題と向き合い、相応しい最適解をどのように創るかを共有すること。
でも、ほんの1年前までは(無自覚ではあるものの)自分より「格上の人」から愛されることでした。
人をイラつかせる天才と自称するくらい弱い自分。あらゆるできないに囚われ続け、治したいとは意識するも、課題解決の手段である努力を目的化した「根性」で空回りの日々。
学ばない、成長しない、相変わらず弱いままの自分は価値がない。
そう感情的に判断しては自己否定を繰り返すのが当時のわたしでした。
そういう状態になると、無性に人の愛が欲しくなります。
こんな弱い自分(子供の自分)を心配してほしい、優しくしてほしい、共感してほしいという欲にまみれ、依存的な態度を取る。
実際、その欲が通ったらもっと欲しくなり、通らなくても同じように欲しくなりという沼にはまっては動かない。
もう、どれだけ晒すかというくらいの恥を晒しました。
つまり、この欲にこだわるほど、愛され人間にはなれないのです。
なぜなら、常に意識が自分に向いてるから。
自分さえ良ければという下心があるから。
わたしはこの考えが愚かであることを、人生の棚卸しという自己対峙で理解しました。
これが自分や他人を苦しめていた理由なんだと気づいてからは、自分軸を育てるインプットとアウトプットに集中。
気づいたときには、そのようなこだわりはなくなり、「この自分で良い」という自信をつけるまでになりました。
よく考えれば、わたしが一方的に格上と判断した人の多くは、自分を大切にした上で、関わる相手にも同じように接している人。
これと同じことがいまの自分にも・・そういうことかとようやく心から納得しました。
このnoteにいるわたしの周りには、数えるのが大変なほど多くの仲間がいます。
改めて、わたしを見つけ、スキやフォローなどの反応をしてくださってる方々に感謝しています。
その与えられた分のお返しを、今後もこだわりのインプットとアウトプットの両立で継続します。
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