110⚪︎「心の理論」から思うこと
仕事柄、心理士(心理師)まではいかないが、人の心理に関したことに聞きかじったような知識はあると思う。そんな中でつくづく、仕事をしていて、あ~と思うことがあるのが「心の理論」
そこについて思ったことをつぶやきたいと思います。
「心の理論」とは
まず、ここに触れないと始まらないですね。だけど、調べてまとめていくの
大変だな~と楽しようというのではないですが検索を利用。キレイにまとめられていたnoterさんの記事引用させていただきます。
「心の理論」とは、他者の心の状態を理解し、その視点に立って考える能力のことでありますが、その例を考える時によく出される「サリーとアンの課題」について説明されています。
発達障がいを抱えるお子さんについて、出てくる話であるのですが、今回私が書きたいのは、こういうことは特性ばかりでなく、スペクトラムな面もあるというか、自分たちはどうなんだというところです。
自分本位ですすんでる時には
ありますよね。人の立場が見えない時。
打合せなどしていて、A(私)Bさん、Cさんいたとして、「あーそれ、Cさんは前提の話聞いてなくて知らないののBさんわかってないで進めてるわー」という状態。
また、そんなBさんに限って、「私それ聞いてないんだけど」と自分の時は怒ったり。誰か一人と話しただけなのに、みんなわかってる前提となっていたり。
「心の理論」ばかりでなくて、記憶なども関係することかもしれないですが、大事なのは、それがいい悪いとかでなくて、そういうことを意識する気持ちがあるかどうかだと思うのです。
頭ではわかっても
あと、頭ではわかっていても、実際が合わないということが…。サリーとアン問題も決してすらっと解ける(私はどっか一瞬ん?と考えます)ものではないと思うけど、この問題がわかるのと現実とはまた違うようにも思います。頭での理解と行動ってどこか隔たりがありますね。そこは気持ちのコントロールとか、相手に合わせられる配慮とかがからんでくるのか、自分本位さ(利己的な意味の)がどうなのかなど…。
例えば…
子どもが散らかした部屋を見た時にどう思うか(どこかで聞いた話か、自分が思ったことか曖昧な内容なんですが)その雑然さにカっとなって怒って反応する、その前に、そこに至った過程を考えてみてはどうか。すごい夢中になってやっていた姿が浮かんだり、あるいは何かしようとして上手くいかず葛藤した状況があるかもしれない。そこまでの時間のことを実際に尋ねて聞いて、その上で、自分の思いを伝えてみることができるといいななんて思います。それがコミュニケーションなのかななんて。
結果、ありきたりのことであっても、いきなり「片づけなさい」と言われるのとは片づけする気持ちも違いますよね。
自己完結しない
相手のことを思ってやっていても、その思いを多少なりとも伝えてくれないと、プレッシャーや窮屈さを感じやすいと思う。とかく「私やるわ」と引き受ける人がいるけど、それは相手のためなのか自分が優位になりたいためなのか。穿った見方をするとそのようにも思えることがあります。相手のことを見えているのかどうなんだろう、手もちぶさたになって立ちすくんでる人が目の前にいませんか?
そんなことをつらつら考えていたら、積読になっていた本のことを思い出しました。
『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』
読んでみると、やはり出てきました。心の理論の話。
とあるように、言い方の工夫に寄るばかりでなく、伝わらなさの背景について触れられている。
「スキーマ」というそれぞれの人が異なる「地域や思考の枠組み」
黒川伊保子さんの本でも「認識フレーム?」のようなことばで、男と女の違いについて触れられていたように思う。
その違いがあっても伝わるように伝えられること、その違いを受け入れられることが大事。
~ここからは余談~
今井さんの著書では、他に「直観」に関したこと「AI」に対しての懸念のようなことも触れられていて興味深いです。
その後、生成AIによって割を食うのは、Niユーザーという記載もnoteの記事でみかけて戦々恐々とするところですが、そうでないエッセンスはあるはずと信じて、髪一本の差でも凌いでいきたいところです。(こう書いている点で危機一髪の状況ですね)