細かい校則を望んだのは学校だけだったか
学校は秩序を守ろうとして、これまで校則を細かく、厳格なものにしてきた。
特に校内暴力が全国的に広がっていた1980年代にその傾向は顕著となった。
それは真面目に授業を受けようとする子を守ろうとした結果であり、そういう子が自分の学校に誇りを持てるようにしたかったからである。
しかし、幾度となく学校は校則に関して批判を浴びてきた。
かつては、「一回に使うトイレットペーパーの長さ」まで規定していた学校もあったりして、かなり厳しい批判を受けた。
生徒に対する人権侵害も繰り返し指摘されてきた。
時には訴訟にまで発展するケースもあった(今でもある)。
確かに、細かすぎる校則は無駄である。
特に頭髪に関することなど、人権にかかわるものはすぐにでも全廃すべきだろう。
けれども、学校関係者以外の人に考えてほしいことがある。
本当に学校だけが細かい校則を望んでいたのだろうか。
保護者や地域も、学校に対して子どもの「監督」「監視」に期待し、暗に校則の厳格化に依存してきたのではないか。
昔、放課後に「俺の家の駐車場でたむろしている中学生がいる。何とかしろ」というクレーム電話を受けたことがある。
自分の敷地内なら、自分で注意すればいいものを、わざわざ学校に「指導しに来い」という。
仕方なく、何人かの教員が駆けつけることになる。
行かなければ「いつになったら来るんだ」としつこく言われる。
こういうことがあるから、学校では「放課後はどこにも立ち寄らずに帰宅しなさい」という指導をせざるを得なくなる。
こうしたクレームの背景には、子どもは、親と学校が責任をもって監督すべきだという意識があるからだが、親にクレームを言うのはハードルが高い。そこでクレームは、「言いやすい学校」に向けられる。
子どものことならなんでも学校へという、学校依存体質がそこにはある。
他にもある。
高校入試にピアスをつけたまま受験した生徒について、入試後に高校から「あの子はどういう子ですか?」という問い合わせがあったことがある。
高校側としては、入試にピアスをしたまま受験するような子は、入学してから生徒指導に時間を取られて困ると考えるのだろう。
これを高校だけの問題と考えていいものかと思う。
高校としても、入学してきた生徒が地域で問題を起こせば対応を迫られる。「お前の学校ではピアスを許しているのか」というお叱りの声にも応えなければならない。
そういう声を邪険に扱えば、学校の評価を下げるようなことを広められるかもしれない。
あの高校は「荒れている」などと思われたら今後入学希望者が減るかもしれないと思う(某高校の元校長に聞いた話です)。
小学校では帰宅時間を学校で決めていることが多い。
これも学校依存の象徴である。
外で遊んでいても夕方の5時には家に帰りましょうというわけである。
(夏休みなどの長期休業中なら、「午前10時までは、家で勉強しましょう」というのもある。)
そんなことまで決めるのかと批判するのは、意外にも自分の子が既に卒業してしまった人たちであり、現役の保護者は帰宅時間ルールの撤廃には強く反対する。
「学校が決めてくれないと、いつまでも遊んでいて帰ってこなくて困る」と訴える。
中には小遣いの上限を学校で決めてくれという保護者も少なからずいる。
親が決めて子どもから文句を言われるのが嫌なのである。
このように、もともと厳しい校則を望んだのは学校だけだったわけではない。
子どもを型にはめることで安心感を得ようとした周囲の学校依存体質も少なからず影響していたはずである。
だからこそ、校則の問題を学校だけの責任とする論調には違和感を覚える。
かつて、イヴァン・イリイチが「学校化社会」を予言したことは有名な話だが、まさに今、社会全体が「教育=学校教育」と勘違いしている気がする。
家庭教育、地域教育、企業教育など、教育は至るところにあり、学校教育はその一部にすぎない。
にもかかわらず、あたかも学校教育が万能であるかのような錯覚が広がって定着した感がある。
近年、ようやく校則改正を進めよという声が広がってきた。
私も校則は最低限のものでいいと思っている。
各地で、ジェンダー問題への関心の高まりもあって、制服の改正や廃止の動きも生まれている。
もともと、生徒の生活のすべてを(特に放課後、校外での行動を)校則で規制できるはずはない。
子どもの成長に対する責任は、すべての大人にある。