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問いの立て方

大量の情報にあふれる現代において、「信憑性」は非常に重要です。
その情報が信じるに値するかどうかを判断するためには何らかの根拠が必要ですし、そうした根拠の「信憑性」を見極める力が必要となります。
しかし、これがなかなか難しい。そこで根拠の信憑(しんぴょう)性を見極める一つの方法として「問いの立て方」に注目することが有効となります。

例えば、何年か前に「学級の規律を重んじる学級担任のクラスは学力が伸びる」という調査結果が新聞で大きく扱われたことがありました。
この調査結果に対して「その通りだろう」と思う人もいれば、「それは一概には言えないだろう」と感じる人もいたでしょう。
そして、次の段階として、いずれの立場の人も、なぜそんなことが言えるのかということに関心を向けます。
このとき気をつけなければならないのは、こうした調査が、私たちを知らず知らずのうちに二者択一の問いに誘導している可能性があるということです。

この調査で言うと、あたかも「学力」は「学級の規律」の程度によって決まる(影響される)という暗黙の前提(仮説)が隠されていて、知らないうちに規律が学力と関係があるかないかという二者択一の世界に引きずり込まれているかもしれないのです。

しかし、学力というのは学級の規律以外にも多くの条件から影響を受けているはずです。
学級担任のタイプや教育観、あるいは学級の人数(規模)、家庭の環境、子どもの性格など、学力に影響を与える可能性のあるものは無数にあります。ところが、一つの問いの中に「規律」と「学力」のみが並べてあると、ついその範囲内で考えなければいけないように錯覚してしまいます。

実際、この調査でも、中学2年生では有意な相関関係がみられたけれども、小学5年生には大きな効果は見られなかったという結論でした。にもかかわらず新聞報道は、センセーショナルに中学2年生の結果だけを大きく見出しに使ったのです。

他にもこんな例もあるでしょう。ICT機器を製造販売する企業が「ICTは人間を幸福にするか」と私たちに問うとき、もしかしたら、私たちの幸福についての思考をICTが是か非かとする「二者択一」を迫っているのかもしれません。私たちは、そうした「二者択一」的な問いに対して、絶えず問いの外から考えてみる視点が必要です。

最近よく耳にするエビデンスという概念も、私たちの思考を限定的にする危険性を含んでいます。
エビデンスは数値や指数で表される科学的根拠という意味として用いられます。
確かに何の根拠もない話は誰も信用しませんから、エビデンスは周囲の納得を得るためには欠かせないものでしょう。
しかし、あらゆる調査や研究はある特定の範囲内でわかることしか示せません。
エビデンスもそうした限定された範囲内でしか通用しないのです。
エビデンスを否定するつもりはありませんし、高度な統計処理の結果生み出されたデータは非常に貴重なものです。
しかし、数値で表される「量的」な結果は必ず一定の例外を含んでいます。

よく、調査結果表の下に、小さくp<0.1などと書かれているのを見かけますが、これは、10%の例外を除外した9割に対して有意(意味のある)な差が認められますよ、という意味です。右側の数値が小さくなればなるほど例外が少ないことになります。しかし、これが「0」になることはまずありません。

私たち教育関係者は、統計的に認められた「例外」の中に含まれた子どもを置き去りにすることはできません。
だからこそ、私たちの経験の積み重ねから生まれる「質的」な感性もエビデンスとして大切にすべきだと思うのです。
それは、数値化されるものではないし、目に見えるものでもありません。
でも、ドイツの教育哲学者O・F・ボルノウが「教育を支えるもの」として「雰囲気」を最も重要なものと考えたように、教育の世界では「量的」な分析では測れないことの中にこそ本質があることが多いものです。

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