ややこしい話
「タイトルの上に示した写真は何を映したものでしょう?」と聞かれたら、ほぼ全ての人が「リンゴ」と答えるでしょう。
「ほぼ」と言ったのは、「わかりきった質問だ。さては答えはリンゴじゃ
ないな」と考える人を想定したからです。
次に、このリンゴが実際に目の前にあったと想定してみてください。
どうすれば本物だとわかるでしょうか?
「そんなもの見ればわかる。色も形もリンゴそのものだ」
という人もいるでしょう。
でも、ひょっとしたら紙で精巧に作られた偽物かもしれません。
「持ってみればわかるだろう」
という人もいるでしょう。
リンゴにはリンゴなりの重さというものがあるというわけです。
でも、リンゴと同じくらいの重さの物は他にもあります。
決め手に欠けます。
「それなら、食べてみれば?」
見た目もリンゴ、重さもリンゴ、味もリンゴとなれば、それはリンゴ以外には考えられない。
でも、世の中には、カニが入っていないカニカマというのもあります。
カニカマは、実際に食べても本物そっくりのカニの味がします。
リンゴだって、現代の科学技術をもってすれば、専門家がその気になればほとんど同じ味のものを作ることはおそらく可能でしょう。
じゃあ、いったい私たちは普段どうやってリンゴをリンゴとして認識しているのでしょう。
この問題に明解な答えを出したのがドイツの哲学者フッサールです。
フッサールは「「リンゴが在る」からリンゴが見えるのではなく、「リンゴが見えるから」リンゴがあると思うのだ」※とし、リンゴとは何かという細かい定義(色、形、味、成分など)を突き詰めていくことはあまり意味がないと考えました。
つまり、絶対的な真理を想定せず「どんな場合に私たちは(それがあると)思っているのか」※を最終的な根拠としたのです。
簡単に言うと、見ている人がそれをリンゴだと思うからリンゴはリンゴであるというわけです(ややこしい)。
見ていない人からすればリンゴは存在しないのも同じですから。
一つの物がそこに存在し、それがどういうものかはそれまでの経験などに基づいた人間個々の意識(定義)によって決められます。
そして、互いに「これはリンゴだよね」「そうそうリンゴだよ」という共通了解があって初めて「リンゴ」という言葉が成立するのです。
だからこそ、「リンゴ」と聞くと誰もがおおよそ同じようなイメージを抱くことができるのです。
そして、時には「よく見返したり人とも確認し合ったりする中で、『あ、やっぱりまちがっていました』ということになる可能性」※もあるのです。
これが大切なところです。
真実は一つとする一元論から脱するためには、この共通了解しか術がないということです。
フッサールのこうした考え方は、現象学的還元と呼ばれ、長い間批判に晒されました。
それは、それまでの哲学が真理を前提にしていたのに対し、その前提そのものを否定したからです。
しかし今、現象学は世界的に認められ、教育界にも大きな影響を与えています。
また、多様化が進む現代社会では、一つの絶対的な価値を誰もが同じように持つことは不可能と言ってもいいでしょう。
私たちが、生徒を理解しようとするとき、同僚の先生や先輩と共に
「あの子はどう理解すればいいのでしょう」
と意見を交わし合います。
そうした対話の過程で、互いの共通了解が形成されるのです。
そしてその過程を重ね続けることで初めて、日々変化を続ける生徒を互いに共通理解(了解)する瞬間に出会えるのです。
(※印の「 」内は、『知識ゼロからの哲学入門』p124-p127竹田青嗣+現象学研究会、2008,6,25、幻冬舎からの引用)