流れぬ彗星〜第二部(1)「雪叩き」【歴史小説】
この小説について
あの畠山次郎が帰ってくる!
「天昇る火柱」第二部の終幕から、少しだけ時を戻して…
天王寺の陣で、主君・足利義尹の来援を待ち続けていた畠山尚慶。
しかし願いは叶わず、細川京兆家の若き猛将・薬師寺元一によってその軍勢は打ち砕かれてしまう。
再び紀伊へ逃れようとした尚慶は、一体どのようにして生き延びたのか。
どのようにして再起を果たしたのか?
そして京兆家を揺るがした内訌「薬師寺元一の乱」に、どこまで関わっていたのか……?
失われた断片を埋め、畠山次郎の苦闘のゆくえを紡ぐ第二部、ここに開幕!
世に不撓不屈の将は数あれど
足利義尹、畠山尚慶の主従に勝る者はなし
~『紀和志』林堂山樹
本編(1)
黒ぐろとした藤巻の龍笛が、踏込みの押し板にごろりと投げ出された。
髻を切ったざんばら髪の若者は、それをちょっと見やって、不思議そうな目をした。
眼窩は落ちくぼみ、無精髭に覆われた頬がこけている。床柱に寄りかかりながら、裳付衣の脚を崩していた。
「こんなものがどうした、とでも言いたげでござるな」
目の前に立つ大柄な男は、その面前で膝を折りもしなかった。
袖の長い練貫の胴服姿である。油を塗った顎鬚をしごきながら、傲然とこちらを見下ろしていた。
「手すさびに吹けとでも言うのか」
「まさか。面白い話がござる」
男の名は、木沢左近という。
左近の話はこうである。
去る雪の宵のことであった。
堺の場末、大旦那の屋敷が並ぶ土塀の裏通りで、足駄の歯に雪が挟まって立ちゆかなくなった。
溝の柴橋を渡った先で、裏木戸の下の裾板へ、蹴りつけるようにして足駄の裏を叩き当てた。
何度も繰り返していると、左の歯の間からようやく雪が抜けた。
次は右も、と思った時、ふいに裏木戸が開いて、なよやかな女の手が差し伸ばされてきた。
なすがままに引き込まれ、土間を過ぎ、雪明かりばかりの廊へ上がった。
炭が熾され、沈香の焚かれた座敷へ通された。畳の上には既に褥が延べられている。
おのれを導いてきた女は、遣戸の前で三つ指をつき、その室を去ろうとした。だが見ると、髪を束結びにして、身ぎれいな若い下女である。腰の線は丸々として、小作りな目鼻立ちも悪くない。
脈絡もわからぬままに、左近は反対に女の腕を引っぱり、夜具の上へ押し倒した。
女の顔には、『あれっ』という驚きと、咄嗟の怯え、見知らぬ相手を引き込んでしまったという後悔が、一時に浮かんでないまぜになっていた。
「何だ、その話は」
若い男は、不快そうに顔をしかめた。
「面白いのはここからでござるよ」
後日、左近に来客があった。
堺の納屋貸衆の中でも筆頭格と言ってよい、臙脂屋の老主人である。
よもやま話をしたあと、おずおずと本題を切り出してきた。
『先だって、娘の嫁ぎ先からお持ちになった笛を、何卒お返しいただきたい』
と言うのである。
左近が引き込まれたのは、高麗と商売をしているとある廻船問屋の屋敷であった。主人は海を渡って不在がちであることも、左近は心得ていた。だが臙脂屋の娘がそこへ嫁ぎ、ましてや時々間男を引き入れていることまでは知らなかった。
「拙者が足駄で塀を叩いた音を、毎度の合図と取り違えて、下女が戸を開けてしまったのですな」
左近は得々と説き明かしてみせた。
此度の小さな奇縁の戦利品として、脇棚の上に置かれていた笛を懐して帰った。だが臙脂屋としては、娘の不行跡の証となる品物を、何とかして取り戻さなければならなかったのだ。
「で、ここにこれがあるということは」
大童髪を掻き上げながら、若い男は床板の上を指差した。
「そなたは返さなかったのだな」
「左様にござる」
左近の言い分はこうである。
臙脂屋の人々に、自分は何ら含むところはない。だが今の世には、人を人とも思わず、義理を義理とも思わず、ただ欲得ずくで、おのれの利にならないことは一顧だにせず、反対に少しでも他人を踏みつける機会があれば、たちまち豹変して飛びつく、そんな者どもで満ち溢れている。自分は彼らを憎む。だからこそ、そんな者どもの同類になるような行いに、こちらから手を貸すつもりは毛頭ない。
『主人が帰れば、湊まで出向き、事の仔細を話して、直々に返してやるつもりじゃ』
『何とご無体な』
老人は目を剥いて泡を吹いた。
『娘は誤っていた。人の道を踏み外していたやもしれませぬ。しかし例えどのような者であっても、我が子はかわいいもの。それもまた、人の道ではございますまいか』
嘆き、泣き、なだめ、怒り、脅し、畳に跡がつくほど額をこすりつけて、臙脂屋は哀願を続けたが、左近は少しも心を動かされなかった。てんで当方とはかかわりのないこと、という体である。
とは言え、臙脂屋の方とて引き下がるわけにはいかない。ついに、
『我ら一家のいかなる財貨宝物、ご所望とあらばお譲りいたしますゆえ、どうかその下らぬ龍笛一本と、お引き換えのほどをいただけませぬか』
とまで口走った。
そこまで聞いて、左近ははたと態度を変えた。
『ただ今の言葉に相違ないか』
老主人は、ぎくりとして身をすくませたが、まっすぐに睨み据えられればこそ、うなずき返すより他はなかった。
『ならば数日待て。こちらも仔細検める先がある。ご老公が約束を違わなければ、必ずやこの品は手元へお返しいたそう』
そうして今目の前に転がっているのが、くだんの笛ということであった。
「義理を義理とも思わぬ者になるつもりはないなどと、よくぞ言い放ったものだ」
若い男はしかめ面を背けつつ、両手を火鉢にかざした。
「なぜでござる」
「私はそなたの主人の仇ではないか。それをこのようにして匿い、二枚舌も三枚舌も使っている」
「そのおかげで、殿様はこうして生き永らえておられる。いや、それ以上のことさえ、もたらして差し上げようというのですぞ」
そこでようやく大口袴の脚を曲げ、どっかりとあぐらを掻いた。
「散り散りになった被官衆を呼び集め、臙脂屋から金子を引き出して武具兵糧を整えれば、再び兵を挙げることもできましょう」
「なぜそれを、総州の方へ伝えぬ」
「今の義英様は、細川右京兆の手の中へ完全に取り込まれております。さらには、河内十七箇所代官の赤沢めに背後から睨みつけられ、身動き一つ取れない有様にござれば」
「それで私の方を動かそうというのか」
「このままでは、いずれ天下は細川の手に渡ります。拙者はどなたの流れというわけではなく、畠山という家の臣だと心得ている」
左近は広い背中を伏せ、深々と頭を下げた。
「何卒ご決断を、尾張守尚慶様」
(幸田露伴『雪たたき』による)
~(2)へ続く