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【歴史小説】天昇る火柱(6)「胤栄」


この小説について

 この小説の主人公は、赤沢あかざわ新兵衛しんべえ長経ながつねという男です。
 彼は、信州の小城に庶子として生まれ、田舎武士として平凡な一生を送るはずでした。
 しかし彼には、二十歳近くも年の離れた兄がいました。
 兄は早くに出家して家督を放り出すと、諸国を放浪し、唐船からふねに乗って明国にまで渡ってゆきました。
 そして細川京兆家ほそかわけいちょうけ内衆うちしゅとなり、やがて畿内のほとんどを征服することになります。
 神も仏も恐れぬ破壊者、赤沢沢蔵軒たくぞうけん宗益そうえき
 その前に立ちふさがるのは、魔王・細川政元まさもとへの復讐に全てを捧げる驍将ぎょうしょう畠山はたけやま尚慶ひさよし
 弟にして養子の新兵衛とともに、赤沢宗益の運命を追いかけていただければ幸いです。
 どうぞよろしくお願いいたします。

本編(6)

 胸倉を掴み上げられて目が覚めた。
 喉が締まり、激しく咳き込んだ。続いて飛んできた拳骨に、頰を殴り飛ばされた。
 口の中に、血の味が広がる。
「おい、貴様っ」
 目の前に、異人の顔があった。荒い鼻息がまともにかかってきて不快だった。
「何だこれは」
 続いて鼻先に突き出されたのは、小さな黄金色の彫り物だった。踊る天女をそのまま小さくしたような形をしている。
「別に、何もない」
「藍紗が帰ってきていたのだな」
 図星を突かれてしまえば、新兵衛は黙り込む他なかった。
 それにしても、なぜこんな時に限って、わざわざ家へ帰ってくるのだ。木津へでもどこへでも、失せていればよかったのに。
「隠しても無駄だ。とっとと吐いた方が話は早い。わかるな」
 この鬼の爺いは、確かにいつでも話が早い。そこだけは少し気に入っている、と思えた。

 藍紗は、楠葉元次の姪孫てっそんに当たった。
 弟の孫だ。この離れは、元々その弟の家族が住んでいた屋敷だった。
 が、その家の男たちはみな筒井との合戦で討ち死にした。残された藍紗は、幼いうちに母と家を出ていった。
「大不里士へ帰る、などと言ってな」
「タブリーズ?」
「わしの爺様の生まれ故郷だ。今さら帰ったとて、知る者もない。その術さえ、到底なかろうに」
 天竺よりまだ向こうまで、本当に帰る。確かにそれは、無謀な試みでしかないように思えた。
「それがどうして、今になって戻ってきたんだ」
 じろり、と鬼の横目で見据えられた。
「人の話では、唐船の使節に加わろうとして失敗し、倭寇わこうの船に乗り込んで、朝鮮の島へ売り飛ばされたらしい。その後のことはわしも知らん。しかし、本当にあの娘は生きていたのだな」
 そこまで言うと、声音がやや湿り気を帯びた。新兵衛は気まずく顔を背け、居心地の悪さを味わっていた。
 藍紗が自分に語ったことを、到底この爺いには明かせない。
 新兵衛は口をつぐみ、乱れた茵の上を睨んでいるしかなかった。

 郷の背後、東山内に通じる鉢伏山はちぶせやまの奥。
 日は傾きかけ、茜色の帯が梢の間からいくつも差している。黒ぐろとした葉叢はむらの裏で、からすが鳴き交わしている。
 細い獣道の登り口で、藍紗は待っていた。あの時と同じ、月白の小袖を着ている。髪は紅の唐紐で高く巻き立てていた。
「待たせたな」
「いいや別に」
 無愛想に答えてきびすを返した。新兵衛はその後ろに引き続き、細い山道に積もった枯れ葉を踏みしめていった。
 目の前には、あの夜にさんざ抱きすくめた大きな尻がある。
「新右衛門の爺さんから、お前のことを聞いた」
「ああ、そうだろうな」
 まるで取りつく島もない。
「天竺より向こうへ、帰ろうとしたのか」
 やはり返事はなかった。
「よくこの大和まで戻ってこられたものだ」
「あんたにはわからんさ」
 突き放すような言い方だった。
「そりゃあ、わからん」
 新兵衛も言い放って、やはり黙り込んだ。
 半刻ほども登りしめているうちに、だんだんと日が落ちてきた。
 道の途中で、鹿も通らないような茂みの中へ分け入っていった。尖った葉や枝が袖に引っかかり、肌を刺してくる。もはや先を行く娘の姿も見えない。新兵衛はただ木々を掻き分ける音だけを頼りに、前へ前へと進んでいくしかなかった。
 前触れもなく、ふいに外へ抜け出した。
 森の間にぽつんと高台が広がっている。草原の向こうの崖の下に、小さな小屋が掛かっている。その前に粗末な塵取輿ちりとりごしが置かれ、その上に何か奇妙なものが乗っていた。
 近づいてみると、それは小さな老人だった。
 焙烙頭巾ほうろくずきんをかぶり、黒い直綴じきとつを身にまとっている。が、身を支えもせず高欄こうらんに背中を預けているだけだった。
 老人には、四肢がなかった。
 顔も深い皺に埋もれそうで、およそ心の在り処というものが読み取れなかった。ただ異常に鋭い眼光だけを回し、こちらを睨みつけてきた。
「西方様、赤沢新兵衛です」
 藍紗がそのように告げた。当人はどう答えたものかわからず、ただうなずくばかりだった。
 これが、西方。
「ようぞ参った」
 枯れた古木を思わせるしゃがれ声を、老人はようよう発した。
「わしが古市丹後公たんごのきみ胤栄である。話はこの者から聞き及んでおる。そなた、京兆家内衆赤沢沢蔵軒の弟であるそうな」
 それは間違いなかったので、新兵衛はまた黙ってうなずいた。
「沢蔵軒殿は、管領畠山の軍勢を瞬く間に打ち払ったほどの剛の者じゃ。その軍勢が我らに加勢すれば、本貫を顧みない澄胤めの支配など、たちまち覆すことができよう」
「しかし」
 新兵衛は思わず口を挟んだ。
「筒井は細川右京兆にとって敵方だ。あなたは同じ東山内で、筒井の庇護を受けているんだろう」
「筒井もわしも、あの者により本貫を逐われたということでは、全く同じ立場じゃ」
 胤栄は、胴体だけで身じろぎしながら、深く息をついた。
「京兆家とて、元々筒井との遺恨は何もない。ただ澄胤めが尻尾を振っているゆえ、行きがかり上そちらの肩を持っているだけよ。その澄胤一人さえいなくなれば、我らが右京兆殿に帰順する障りは何一つなくなる」
 苦しげに咳き込むと、藍紗が輿のそばまで駆け寄り、よだれにまみれた口元を袱紗ふくさで拭き上げた。
「実のところ、澄胤めは古市の郷を抑えられてはおらん。家中からも郷民からも、心から支持されてはおらん。だからこそ木津に居着き、南山城の経略なぞに熱中しておる。
 しかしそれでは、取り残された古市の者たちはどうなる。我ら古市は、春日若宮へ流鏑馬やぶさめも奉納させてらえぬ、成り上がりの郷じゃ。他の衆徒国民しゅとこくみんから敵意を向けられる中で、肝心の惣領もおらぬまま、ただただ孤立を深めていけば一体どうなる」
 思いのほか、口がよく回る。手足がなくとも、ひどく雄弁なようだ。
「そなたとて同じじゃ。信州から預けられておきながら、澄胤めにも楠葉新右衛門にも、てんで歓待されず放りっぱなしじゃ。今のような無為の日々を送るために、そなたは故郷を捨ててきたのか。このまま若党として使い潰されるのが、そなたの望んだ未来なのか」
 新兵衛はやはり何も答えなかった。が、きょろきょろと目玉を動かし、ごくりとつばきを飲み込んでいた。
「筒井の手勢は、もはや支度ができておる。澄胤不在の郷へ乗り込み、惣領館を抑え、三方の木戸口きどぐちを固めることはたやすい。じゃがそのあとは、沢蔵軒殿の後ろ巻きが欠かせぬ。ただちに京衆の兵を入れ、木津から来襲する澄胤めの攻撃に備えなければならぬ」
 黄色く濁った細い目を、こちらへ向けてきた。既に初めの険は取れ、柔和なほどの口ぶりになっている。
「そなたには、そのための橋渡しを担ってもらいたいのじゃ。事が成った暁には、古市惣領家の家老となし、この藍紗を妻としてくれてやる。新右衛門も老い先長くはない。そなたが楠葉の名跡を継げばよかろう」
 思わず娘の方を見やった。相手は大きな瞳でまともに受け止めようとしていたが、やがて耐え切れなくなったように、足元へ目を逸らした。
「誰かに流されるのではなく、おのれの人生はおのれの決断によって切り拓け。それがこのような姿に成り果てたわしから、若き者へ贈る言葉じゃ。……どうか肝に銘じてほしい、赤沢新兵衛」

                           ~(7)へ続く

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大純はる
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