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流れぬ彗星〜第二部(2)「天下会盟の計」【歴史小説】


この小説について

 あの畠山次郎はたけやまじろうが帰ってくる!
「天昇る火柱」第二部の終幕から、少しだけ時を戻して…
 天王寺の陣で、主君・足利義尹よしただの来援を待ち続けていた畠山尚慶ひさよし
 しかし願いは叶わず、細川ほそかわ京兆家けいちょうけの若き猛将・薬師寺やくしじ元一もとかずによってその軍勢は打ち砕かれてしまう。
 再び紀伊きいへ逃れようとした尚慶は、一体どのようにして生き延びたのか。
 どのようにして再起を果たしたのか?
 そして京兆家を揺るがした内訌「薬師寺元一の乱」に、どこまで関わっていたのか……?
 失われた断片を埋め、畠山次郎の苦闘のゆくえを紡ぐ第二部、ここに開幕!

世に不撓不屈の将は数あれど
足利|義尹、畠山尚慶の主従に勝る者はなし
~『紀和志』林堂山樹はやしどうさんじゅ

本編(2)

 あの時――
 天王寺てんのうじで京兆家の主力に大敗した時。
 辺りは地獄だった。
 死相を浮かべた血まみれの集団が、後ろも見ずに山あいの道を駆け抜けていく。
 いや、駆けるなどというものではない。
 傷ついた手足を抱きしめ、腹から飛び出す臓物を押し返しながら、ただおのれの身を引きずっていく。
 少しでも立ち遅れれば、京兆家の軍勢が後ろから襲いかかり、背中を刺し貫かれてしまうかもしれないのだ。
 それは恐怖。
 はっきりした手触りのある恐怖だった。
(自分の人生は、命からがら逃げてばかりではないのか)
 との思いも、かすかに次郎の頭をかすめた。
 が、そんなことにかかずらってさえいられなかった。乗馬はまだ泡を吹きながらも生きていたが、転倒して脚を折りでもすれば、甲冑を捨てて独り山へ隠れなければならない。
(父の投げつけてくれた女物の打掛うちかけは、今はもうないのだ)
 懐に忍ばせた藤四郎とうしろう吉光よしみつの短刀を、思わずぎゅっと握りしめていた。
 必死の思いで逃亡するさなか、そばに控える誉田こんだ三河守みかわのかみが、脂っぽい顔を寄せてきた。
『木沢左近へ、使いを出しました』
『木沢だと』
 確か、かつて誉田が上総介かずさのすけ義英に仕えていたころの同輩である。
『堺の在所へ、尾張守様を匿ってはもらえぬか、と』
『総州の家臣ならば、我らの仇敵であろう。寝返り者のそなたの言に、耳など貸すのか』
 乾いた血糊と泥で顔を汚し、目だけを爛々と光らせながら、次郎は冷笑を浮かべていた。
『木沢は、表裏比興ひょうりひきょうの者なれば』
 誉田の受け答えはやけに落ち着き払っており、生死の淵で憎さげな気さえした。
 しかし結句のところ、その読みは当たっていた。
 左近は自らの地下じげに敗残の次郎を迎え入れ、髪を下ろしたばかりの若法師として隠したのである。
 その屋敷は、堺の南東の外れに立っていた。
 水濠に囲まれた町場の賑わいからは離れ、人声もまばらな一隅である。母屋おもやと蔵があるきりの構えも物寂ものさびており、よもやここに河内屋形かわちやかたが忍んでいるなどとは、誰にも思われまい。

 てきったしとみの外から、しんしんと雪の降り積もる音が聞こえてくる。
 次郎は裸足を投げ出し、火鉢ひばちに親指を当てたり外したりしながら、ぽつねんと考え込んでいた。
 両の目つきは虚ろで、髭も伸ばし放題になっている。髻を切ったきりの髪がそのまま広がり、癖のままに波打っていた。
 ふいに土間の板戸が開き、そそと雪を払う音がした。
 笠と杖を上りがまちに預けると、墨衣すみごろもの小柄な男が奥の座敷まで上がってきた。
 次郎は億劫おっくうげに顔を上げ、そちらを見やった。ちょっとした心の揺らぎが、その瞳の奥に浮かびかけたが、またすぐに掻き消えてしまった。
「畠山尾張守殿、拙僧のことを憶えておいでか」
 相手の声は、笑いさえ含んでいた。
「無論だ。むしろここ数日、ずっと考えていたところだ。林堂山樹坊」
 鯰髭なまずひげを伸ばした口元でにっと笑い、敷居の前に音もなく腰を下ろした。
「本日は、いつぞやのお詫びに参った」
「詫びとは」
古市澄胤ふるいちちょういんのことでございます」
「ほう」
 次郎は興なさげな声を出した。
「尾州殿は、あの者はただ一人の覇者の走狗そうくにしかなれないと仰った。何となれば、大和一国を背負うのではなく、おのれ一個の権勢のみ追い求めているからであると」
「左様なことを申したかな」
「確かに仰った。拙僧にはその時、まだはっきりと見立てがつかなんだ。しかし今や、尾州殿こそが正しかったと証し立てられている」
 古市澄胤は旧縁を頼って、細川京兆家の内衆うちしゅ赤沢宗益そうえきを、郷土である大和国やまのくにの内へ引き入れた。それだけ筒井つつい党に本貫ほんがんの城と町を劫掠ごうりゃくされた恨みは深かったのであろう。
 しかし、「鬼の赤備え」の異名を取る赤沢の軍勢は、奈良で乱妨狼藉らんぼうろうぜきの限りを尽くした。寺を焼き、僧を殺し、尼をさらい、財宝を奪って、嵐のように南へ立ち去っていった。
 そのあとに居座った古市澄胤は、早速官符かんぷ衆徒しゅと棟梁に返り咲くと、古市城を再建するため、奈良の町に重い地口銭じぐちせんを課した。
「林堂城の物見から、くだんの一団を瞥見べっけんいたしましたが、長巻ながまきの先に生首を突き刺し、縄でつないだ女どもを引き連れて、まこと人外の集まり、魔群の通過でありました」
「御坊も興福寺こうふくじの衆徒であれば、京勢を引き込んだ澄胤が許せないのであろう」
「それは押しなべて、大和一国の声でありましょう。例え誰であっても、あのような災いをもたらした者を許せるはずがない」
 しばしの沈黙が降りた。次郎はちょっと体を動かし、両のふくらはぎで火鉢を抱え込んだ。
「この雪の中、かようなところまでご足労いただき痛み入る。だが、お引き取り願おう」
「何と」
「実際に事が起こってからならば、人は何とでも言える。非難も追従ついしょうもできる。私はそのような者は求めておらぬ。細川の天下を覆すには、そのようなことでは全く足らない。むしろ足枷となるであろう」
 山樹は胸の前でたもとを掻き合わせ、今一度座り直した。
「では、未来のことをお話しいたしましょう」
「未来だと」
「尾張守殿。金輪際、先の公方くぼうを頼りにするのはおやめになられませ」
「何っ」
 咄嗟に激した感情によって、次郎の目に初めて強い光が灯った。
「来るのか来ないのかはっきりしない者を当てにして、みすみす勝機を逃した。それが天王寺での敗因ではございませぬか」
「はっきりしなかったのは朝倉あさくらだ。義尹様ではない」
「同じことでございます。この先についても、大内おおうちが動くのならばそれでよし。しかし、そもそも動かないものとして考え、重々支度をしておかなければなりませぬ」
 鯰髭を撫でつけながら、片方の眉を持ち上げてみせた。
「さらに言えば、細川を打倒し、京へ凱旋して、京兆家に取って代わろうというのは、もはやあり得ることではない。尾州殿は紀伊、越中えっちゅう和泉いずみ、そして河内の国主として、天下諸侯の会盟を主宰されればよいのです」
「諸侯の会盟だと」
「さよう」
 墨染めの両袖を広げ、あたかも天地を包み込むような仕草をしてみせた。
「これぞ、天下会盟の計、と申します」
「しかし、その河内が義英めに握られている。そしてやつの背後には右京兆がいる。結局同じことではないか」
 次郎は反駁はんばくしながらも、身を乗り出し始めているおのれに気がついていた。
「尾州殿は、お父上の仇の右京兆が許せませぬか」
「無論だ」
「総州殿と、どちらが許せませぬ」
「それは、細川の方だ」
「総州殿もまた、父を失われた。お互いに同じ立場となったのです。ここら辺りで痛み分けとし、畠山は再び一つに戻るのです」
「馬鹿な」
 次郎は、天王寺以来ついぞ上げていなかったほどの大声を出していた。
「両畠山が相争っていれば、細川を利する以外のことは、何一つとしてございません」
「河内一国はどうなる。畠山の家督には、私と義英のどちらかしか就くことはできぬのだぞ」
「様々なさわりはありましょう。しかし、それこそが右京兆の巧みに敷いた罠。あの者を出し抜くには、こちらが小を捨てて大を取り、その思惑の上を行かなければなりません」
 むう、と次郎は低くうなった。
「しかし、義豊よしとよを討ち取ったのはこの私だ。義英にしてみれば、私にとっての政元まさもとのごとく、憎しみすら越えた不倶戴天の敵であろう」
「尾州殿は、お優しい。また心から、お父上のことを敬愛しておられたのですな」
 真正面から決めつけられて、次郎はやや鼻白んだ。
「総州殿はまだお若いが、聞くところによれば、その父ほど頑固な性分ではないとのこと。若年にして辛苦を重ねられ、道理を解される心も充分にお持ちといいます。すぐには難しいやもしれませぬが、時宜じぎを得れば、木沢左近大夫さこんのたいふが必ずや、総州殿を説き伏せられるでしょう」
「御坊、木沢とつながっておったか」
 山樹は、満面の笑みとともに角頭巾すみずきんの頭を下げた。
「大和の国是こくぜには、こういった言葉がございます。和をもって尊しとなす、と」
「私とて、いずれ今のままでおられぬことはわかっていた」
 次郎は薄墨色の裾を翻し、久方ぶりにまっすぐ膝を伸ばして立ち上がった。
「よかろう。既に何度も失われかけた命ならば、最後の刹那まで燃やし尽くしてみせよう」
 山樹は鯰髭を指先でひねり上げつつ、満足げにその姿を仰いでいた。

                           ~(3)へ続く

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大純はる
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