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花は咲かない、お前は臭い、殺し文句はアイブラユー

読者の心臓に匕首のように突き立てられた本、重要なのはそういう本だ。

シオラン『カイエ』(金井裕・訳 法政大学出版局)

八月十日

十一時起床。紅茶、ガーナチョコ二個。熱中症警戒アラートが出ている。できるだけ長く図書館で過ごすに如くはない。きのうは夜、ダイス氏と南砺市の温泉。きょう山下達郎のライブに行くとか。ジャニーズ騒動のこととか話すのかしら。阪神はいま首位で優勝しかねないところ(二位広島と4.5ゲーム差)にいるが最終的にはお約束通りコケると思う。あの阪神が優勝など出来るはずがないからだ。俺の予想はきっと当たるよ。さいきん図書館ではシオランの『カイエ』しか読む気が起らない。デヴィッド・グレーバーとかジュディス・バトラーとかジョルジョ・アガンベンとかミシェル・フーコーとか大西巨人とか武田泰淳とか、読欲のそそられる本は数々あるんだけども、図書館に入ると足は自ずとシオランのほうに向かう。いまシオラン以外で手に取る気を起こさせるものがあるとすれば、チャールズ・ブコウスキーか埴谷雄高くらい。ある種の苛烈さと毒を持たない著者にいまは用無しだ(洋梨は英語でpear)。ジェンダー研究も経済研究も昭和史研究もみみっちすぎて読めない。シオランの憤怒や苦悶を真に理解できる人間は私の他にはきっといないだろう。どいつもこいつもヌルマ湯脳の死に損ないだから。ひたすら凡庸な浮遊的自足者。<精神>というより<肉のカタマリ>。『カイエ』を単なる「チラ裏」集と評したくなる向きもあるだろうきっと。身も蓋もない唐突な書き殴り、(いまでいう)「中二病」的誇大妄言、とめどない愚痴あるいは暴言、神秘主義的言辞、抽象的破滅願望、「極端な成熟性」と「極端な幼稚性」の同居、、、シオランの思考周波数に対応できぬ読者は読むなり気が滅入ってくるに違いない。でも俺にとってシオランの「反時代性」はつねに同感可能なのものであり、必須のものでもある。隣のジジイへの殺意は日に日に高まるいっぽうだ。「老いた隣人」の耐え難さ。ただでさえ醜悪な「生」の救いがたい末路。そういえば西部邁が晩年、あるトーク番組内で、よぼよぼの老人がへろへろになりながら歩いているのを車内から見たということをぶつぶつ語り、「早くくたばりやがれっと思った」なんてユーモラスに言い放ち、私はその瞬間だけこの「保守論客」のことが好きになったものだ。彼の「老醜嫌悪」はなかなか深刻なものだったらしく、だからその自死は彼なりの「美学」の帰結だったと言い得る。「老いとは自然の自己批評」と言った人がいる。何をか言わんや。

以下は『カイエ』(金井裕・訳)からの書き抜いたもの(本文の傍点部分は太字にした)。

(その必要があれば)自殺できる確信がないとき、私たちが未来を恐れるのはそういうときだけだ。

実は私たちは、ほかの何ものでもなくただ祈りのために生まれてきたのだ。

希望するために生まれた者もいれば、まったくの逆の者もいる。人はだれも自分の絶望に責任はない。

倦怠の解毒剤、それは不安だ。薬は病気より強いものでなければならない。私の全生涯は、この交互の経験にほかならなかったのかも知れない。

論文など書きちらすより祈ったほうがずっと時間の善用になるだろう。

昨日、腸を診てくれた医者が「自殺を考えていないかどうか」尋ねる。――「いままでずっとそれだけを考えてきましたよ」――と私は答えた。医者は満足そうに、つまり、間抜けづらで私を見た。

苦悩を使命に変え、苦しみを誇りに思うことを学ばなければなるまい。ときたま私はこれに没頭し、いささかの成果もなくはないのだが、しかし私に救いがありうるとすれば、ここにしかない。

私の大きな弱点、それは生を冗談ごとと考えられなかったことだ。

だれかと闘っていると、私たちはどうしても相手と同じところに立ってしまう。敵対者はお互い似てしまう。それどころか、二人の敵は分割された同じ人間だ。

ほんとうの読者はものを書かない人だ。こういう人だけが本をすなおに読むことができる――すなおに、これが作品を理解する唯一のやりかただ。

彼の神経は生に耐えられなかった。

ひとつの、ただひとつの思想を――だが宇宙を粉砕する思想を考え出すこと。

信じがたいことに、人々は他人の創始した宗教に平気で加入する。

ある考えに捉えられると、なぜ私たちはもうその考えから自由になれないのか、その理由を言うことはできない。まるで、その考えが私たちの精神のもっとも弱い点に、もっと正確にいえば、脳髄のもっとももろい点に忽然と現れたようなのだ。

ニンニク焼きそば食って、出る準備をしますわ。

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