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「賢者」は自己ツッコミができる

八月五日

ぼくは予備校生だったが、予備校にはほとんど行かなかった。ぼくは日中ほとんど光が入ってこない部屋の中にいて、ただ思いついたように日本史を読んだり、高校時代にならった数学の教科書の単純な公式を用いて問題を解いたりしてすごした。マンガをみたり、それから時たまくだらない推理小説を読んだりした。新聞はほとんど読まなかった。

中上健次『十九歳の地図』(河出書房新社)

午前十一時五分起床。紅茶、わさび柿の種。シャンプーと歯磨き粉が切れかけている。あさってドラッグストアでいちばん安いやつを必ず買うこと。ばかばかしいくらい暑い日が続いている。夜は夏特有のマゾヒスティックなストイックさをもって住宅街を歩き回っている。汗をかきまくるとどうしてこう「自己愛的」な気分になるのでしょうか。私はとりえあずこれをスポーツナルシシズムと呼んでいる。いずれちゃんと研究します。きのうは午後二時から二時間半ほどコハさんと閑談。話題は政治経済文芸映画創作論と多岐にわたる。ライトノベルを書きたいが「面白く読ませる書き方」がいちまいち分からないというコハさん。純文学が「読者を選ぶことが許される読み物」なら、ライトノベルは「読者を選ぶことが許されない読み物」で、前者においてはかりに評判が悪くても作者は「おまえら凡人になにが分かる」と開き直れるが、後者においてはそうはいかない(だから難易度が高い)とか、そんなことを言った気がする。別れたあとは閉館までシオラン『カイエ』(金井裕・訳)。いたるところに言葉の毒腺。いちいち身に染みる。というか刺さる。腫れる。自分が「生の欲動」と「死の欲動」に引き裂かれていることに自覚的過ぎた単独者シオラン。「人間嫌い」に徹しきれなかった反時代的穴居人シオラン。太い牙のようなペシミズムを生涯持て余し続けた故郷喪失者シオラン。自殺念慮と破壊願望に満ち満ち何も読む気が起こらないときもシオランだけは読める。以下、『カイエ』より抜き書きしたもの。シオランの書くものにヒリヒリする痛みを感じないような人間など、私にとっては木偶の坊、路傍の人に過ぎない。

<絶望>という言葉が手垢にまみれ、それを使うと評判を落とすことになる時代、こんな時代に生きるとはなんと不幸なことか!

「仕事していますか」と訊かれると、「ええ自殺について論文を書いていますよ」と答える。

税金を払う僧。どうやらこれが私というものらしい。

私は聖者になりたいと希った――そのあげく、ペテン師になったにすぎない。

無気力人間プラス衝動人である不幸。

ほとんどの拷問者というのは、私たちを殴る者のことではなく、私たちを退屈させるもののことだ。

倦怠を覚えるのは、自分が世界から切り離されていると感じることだ。

存在を言葉で探すとは!――これこそ私たちのドン・キホーテぶりであり、私たちの本質的企ての妄想である。

私たちの祈りは抑えられると、嘲弄に変わる。

私が克服したのは、自殺の観念ではなく自殺の欲望だ。敗北によって、私は賢くなったのだ。

本を読み過ぎた・・・・・・私の思考は読書に食い尽くされた。本を読んでいるとき、私は自分が何かを<している>と思い、<世間>に弁明し、自分にも仕事があり、暇人であるという恥から逃げているような気がする・・・・・・無益の、役立たずの人間。

ド・クインシーの言う「人間の顔の恐怖」、この烏合の衆、跳ねまわっている、この小怪物、こういうものから私たちを解放してくれるのはだれか。例外なく生殖の汚物から生まれ出た、この小怪物どもは、その面貌は出生の恐怖をさらけ出している。というものが存在しうるとは!

すべてが存続してゆくのは、人間に絶望する勇気がないからだ。

あらゆるものに対してシニックであれ。ただし、精神に対するおまえの義務の理想のイメージについては別だ。

さいきん人と話すことが多い。楽しいこともあれば苦痛を感じることもある。どうやら私はおのれの「偏見」にほぼ無自覚な人間とは長い時間話せないみたい。党派的な語り(惰性的な「われわれトーク」)にされされているとだんだん気分が悪くなってその場から逃げだしたくなる。私が「賢者」として敬愛している人々は概しておのれの意見に固執しない。とても身軽で知的修整能力に長けている。あくまで「単独者」として考え、いつも「ためらい」がある。おのれの発言にこそ鋭いツッコミをいれられる。それが「知的である」ということなのかも。私もできればそうありたいけども――なにしろ人物が小さいもので――
もうそろそろライブラリーへ行く時間。夏休み中のキッズで騒がしいライブラリーへ行く時間。

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