「ひきこもり」は世界を救わない、そのかわり災いももたらさない
四月十二日
午前四時起床。ケチャップの赤色はほんとうにトマト由来の赤色なのかしらとか、天皇の血筋は禿げないのかしらとか、一時期の大学生はどうしてあれほど裏地チェックのチノパンを履いていたのかしらとか、イケメンは何を着ても似合うからファッションセンスに乏しい説は本当かしらとか考えているうち五時になったのでコーヒー淹れて飯食って本稿着手。
年寄り時間に起きたところで「強迫さん」は勘弁してくれない。まだ壁クンクンはしてないけど、さっき壁に耳を当てては隣の爺さんを「警戒」していた。どうやら音が気になるときと臭いが気になるときがあるようだ。両方とも同じくらい気になるときもよくある。爺さんが在室していること自体が「許せない」。自分のすぐ近くに生き物が存在していること自体が「許せない」。どうしたらこの「症状」が緩和するだろうか。雑音感知器あるいは異臭感知器のごとく振る舞い続けることは私の本意ではない。私には私の生活がある。生活の場所は予期せぬノイズや不快に満ち溢れているのがふつうであって、そんな場所に「理想の静けさ」を求めるのは、政治家に正直を求めるようなものである。分かっている。分かっているが呑み込めない。「こっちがいままで被ってきた不快をどうしても向うに分からせてやりたい」という報復衝動が疼きとなって身を苛む。我慢が毒となって体内を循環する。「いい加減にしろ」と壁をコブシで貫通させたい。いますぐ呼び鈴を鳴らして出てきた奴を張り倒したい。私は書くことにも読むことにももっと心地よく専念したいのだ。「他人の気配」にこれいじょう侵入されたくない。
ところで知ってましたか。きょうは「パンの記念日」らしいぜ。一八四二年、砲術の研究者・江川太郎左衛門が日本で初めて「パンのようなもの」を焼いたらしいぜ。知らねえよ。「ヤマザキ春のパン祭り」のほうがよほど国民的行事感があるといっても過言ではない。ところで「一斤パン」の一斤は尺貫法の重量単位であり本来は六〇〇グラムに相当するはずなのだけど、パン業界では、包装食パン一個の重量が三四〇グラム以上のものであれば一斤と表示していい慣行がある。ちなみに「山崎製パン」の広報担当者がいうには、関東では六・八枚切りの出荷が多く、関西では四枚・五枚切りの出荷が多いとのこと。どーでもいいですよ。どーでもいいことついでにもうひとつ。「神戸屋」の広報担当者によると、戦後しばらくはサンドイッチが大好きな進駐軍の指示で八枚切りばかりを作って売っていたのだが、一九六〇年ごろから「神戸屋」が六枚切りを売り出したとのこと。ちなみに北陸在住の私は厚切り派です。なんなら二枚切りでもいい。
斉藤環『ひきこもり文化論』(筑摩書房)を読む。再読である。
きのうイオンの書店で中井久夫を二冊買ったので、なんとなく読みたくなった。「副業文筆家」を自称しながら、オタク文化から若者の性愛まで縦横無尽に論じる精神科医・斉藤環は、中井久夫のファンを公言し、その著作においてはとうぜん彼への言及も多い。中井久夫もまた専門分野に捉われず様々な論考を残した<文筆系>の精神科医だ。その書き物のなかには「サザエさん」や「ドラえもん」といったサブカルチャーについての分析したものもあって、一読書人として大変面白い。斉藤はきっと中井のそんな「やわらかい側面」からも影響を受けたのだろう。この『ひきこもり文化論』というタイトルも中井の『治療文化論』を意識したものだろうし。
前にも書いたが、私は斉藤環の大ファンで、彼の著作は手に入る限りほとんど読んでいる。「ひきこもり診療の第一人者」としての彼は、ひきこもりについての価値判断からは最大限の距離を置いていると本書でとりわけ強調している。なるほどそれは「医者としての倫理」に適った態度だろう。ただ「価値判断をしない」ということはいうほど簡単なことではないのも確か。臨床家でもある以上、その都度「治療」的介入が求められるわけで、そうなるとやはりどうしても、「患者」である彼彼女をなんらかの病理学的観点から見ざるを得ない。彼彼女をとりまく人間関係であれ、彼彼女の生活習慣であれ、「ひきこもりをこじらせている要因」を見出さねばならない。ひきこもりという「状態」をひとつの「過剰性」として扱う眼差しがそこで生まれる。彼の言う「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という常識をそこに適用したくなる衝動がそのとき「正当化」される。
「社会参加」「社会復帰」「経済的自立」を促す言説のなかには必ずといっていいほどある種の暴力性と思考停止が見て取れる。露骨直接的なものであれ遠回しのものであれ、そこにはほぼ、「労働」の価値を疑わぬ「リアリズム」が激しく脈打っている。僕はそのことにつねに敏感でありたい。治療者として「当事者」の苦しみを多く見てきた斉藤は、「ひきこもり問題」をめぐる世の紋切り型言説に、苦言を呈しまくる。一方、「専門家」である彼もまた、「ひきこもり問題」を語るときの自分の言葉の貧困さに内心苛立っているのではないか。本書で再三彼は自分のこれまでの「メディア戦略」や「啓蒙活動」について語っていて、「保守」や「リベラル」といった媒体の色ごとに主張内容を使い分けているなんてこともやや得意気に語っているが、<素直な読者>としての私はあまりそうした「手の内」は表に出してほしくない。それでは、読者とはなべてそうした<メディア戦略>にまんまと乗っかるものだと言っているようなものだ。戦略は秘してなんぼでしょう。彼の愛読者だからこそ、こうした苦言をときどきつい洩らしたくなってしまう。
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