「自分の言ってほしいこと」を言ってくれるのはけっきょく自分しかいない、ということに今更ながら気が付いた、広い巨塔、
一月三一日
午後七時三九分。紅茶と素焼きアーモンド。後者はドン・キホーテで買ったやつだが想定した以上に香ばしくて美味しい。ロッテのガーナチョコと実によく合う。図書館の特別整理期間は今日で終わる。長かった。でもおかげで昼夜逆転をほぼ直すことができた。明日から出勤を開始する。読書体力も回復した。まずは去年読み残していた『美徳なき時代』から読もうか。アラスデア・マッキンタイアとの出会いは倫理学に足を突っ込みかけていた俺にとっては掛け値なしに「痛撃」だった。「道徳」についてあれほど歴史分析的に論じている人にこれまで会ったことがなかった。我が無知と知的怠惰を恥じ入るばかり。「暴力は悪であり、どんな苦痛も無い方がよい」なんて単純に考えがちな俺にとってマッキンタイアの緻密な論考を読解することは極めて得難い「自論批判」的契機になりうるだろう。「生きる上で何を重んじるべきか」といった「価値(意識)」は時代の産物である、ということは私にも直観可能である。しかし「快や苦痛の感覚」には「ある程度の普遍性」は認められるだろう、とどうしても考えざるを得ない。空腹時にものを食う「快」、性的な「快」、疲労が癒されるときの「快」・・・。「快を嫌い不快を好む」そんな者がいるのだろうか。この問題についてはもっと精密な言語で追究する必要がある。こんな雑な「日常的思考」ではとてもこの問題は扱えない。そもそも「価値」とは何か。「善」とは。「道徳」とは。
中井久夫『(新版)分裂病と人類』(東京大学出版会)を読む。
二度三度味読してようやく栄養になる種類の本。分裂病は現在では統合失調症という。イギリス語ではスキゾフレ二ア(schizophrenia)。一九八〇年代初頭に「ニューアカの旗手」としてチヤホヤされていた浅田彰が『逃走論』のなかで「スキゾ人間」と「パラノ人間」について論じたが、前者は「スキゾフレニア人間」ということであり、後者は「パラノイア人間」ということ。ごくがっつりいうと、「スキゾ人間」は何事にもあまりこだわらずに足取り軽やかに様々な領域を横断し続ける人間のことであり、後者は一つの思想とか価値観に執着しがちな人間のこと。なんて分かったようなことを言ってしまったが、俺は浅田彰の書いたものなどこれまで一冊も読んだことがない。「スキゾ人間」とググって表示された文章を自分なりにまとめてみただけだ。俺は横着なのでよくそういうことをする。俺は「ニューアカ」がどんなものだったのかもよく知らない。興味もない。そういえば大学にいたころに『雪片曲線論』という不思議な本を読んだことをいま思い出した(それは紙の黄ばみがひじょうに強い古本だった)。著者は中沢新一。微分記号とかフラクタル図形なんかが出てきて、なまじ「ソーカル事件」のことなどを知っている今の冷めた読者ならさしづめ「疑似科学」と一蹴しそうな内容だったが、当時の俺としてはよく分からないなりにけっこう楽しめた。「この種の本」をそれまでほとんど読んだことがなかったせいかも知れない。この中沢新一という人も「ニューアカの旗手」の一人とされている(当人は「そんな自覚はなかった」とか言いながら気取ってみせるのだろうけど)。「ニュー」といえばその前にニューミュージックという言葉があった。これは主として一九七〇年代に人気を集めた自作自演系の音楽のことを指している。その例を挙げるとキリがない。吉田拓郎、松山千春、井上陽水、中島みゆきなんかはみんなニューミュージックに入る。オフコースとかチューリップとかアリスといったバンドももちろんそのなかに入る。それまでの「歌謡曲」においては専業の作詞家と専業の作曲家によって作られた楽曲を専業の歌手が歌うというのが普通だった。だから七十年代以前の歌に慣れ親しんだ人たちは概してニューミュージックに対しては厳しい(ように思う)。山本夏彦のコラムに「さだまさしは声が小さい、歌手失格である」といったような文章を見つけたとき、私は総身に水を浴びせられたような気持ちになった。私は彼の音楽を聴きながらそんなふうに感じたことなど一度もなかったからである。「世代の違い」といえばそれまでなんだが。いや分裂病の話はどこにいったの。