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無邪気な奴隷的労働者が嫌いだ

三月一日

十二時半起床。即席コーヒーとロイズのポテトチップチョコレート。起き掛けのモー二ングアタックで「くしゃみ」「はなみず」などが出る。「くしゃみ」は英語でsneeze、「はなみずが出る」は英語でhave a runny noseと言う。runnyという形容詞には、「液体の流れやさ」「粘度の低さ」のほかに「粘液を分泌する」という意味がある。モーニングアタックは自律神経の切り替えの過程に起こるとよく言われる。掃除頻度の少ないこの部屋にはダニの死骸だのカビだの花粉だのいわゆるアレルゲンの類が多く潜んでいそうで、強迫神経症に親和性の高い私は、そんなことが一時気になりだすと大変なことになりそうだ。現代においては顕微鏡でなんでも拡大出来てしまうものだから、それだけ「細かいもの恐怖」の人も増えてしまう。世に多く見られる「不潔恐怖」なども「細かいもの恐怖」の一種だろう(細菌とかの実体性を前提としているから)。「見えないもの」への気掛かり的不安はいちど膨張しだすと、歯止めが利かなくなる。細菌とか花粉とかホコリとかならまだ<観察可能>な物質だからまだいいが、「エーテル体」だの「気」だのそんな<不可視的対象>をめぐっての神経症的一人相撲がはじまると、もう手に負えない。私からすればそうした「知の劣化的暴走」の多くは、批判的理性の乏しさに起因している。ほとんどの「信仰行為」の根底には、私が「知的怠慢」と呼んでいる盲信がある。多く人間にはそもそも批判的な理性が乏し過ぎるので、「世界の不確実性」に耐えながら思索を念入りに進めていくことができない。なにかとすぐに「救済」の方法を知りそれを忠実に実践したがる。権威的他者の「教え」や「命令」に進んで束縛されにゆく。不可実性の宙吊り状態に比べればこっちのほうが考えなくてもいいぶんはるかに楽だからだ。いっぱんに「陰謀論」とくくられるような「分かりやすい世界観」もそんな知的怠慢の産物であることが大半だ。心が不安的で頭の弱い人間の非学問的思考は放っておくとだんだん取り留めのないものに流れる。事実(ファクト)にこだわらないと決めている思考は基本的に「なんでもあり」なのだ。個人の空想なら「なんでもあり」でもいいが、その流儀を哲学的思索や政治的意見に持ち込まれたら堪らない。だから私はいつもとりあえず「馬鹿は黙って本を読め」と言っている(「自戒を込めて」と付け加えておく)。

安田峰俊『「低度」外国人材(移民焼畑国家)』(KADOKAWA)を読む。著者は中国事情に強いルポライター。そういえば『八九六四』も数年前に読んでいる。「高度」外国人材ならぬ「低度」外国人材の実態を探ったもの。主として外国人技能実習制度で来日する(した)ベトナム人を追いかけている。その「国際貢献」の理念とは裏腹に、現在の外国人技能実習制度は、日本企業が「途上国」の低賃金労働者を確保するのに好都合な制度となっている。それゆえ廃止論も強い。この制度の「悪用」による労働力搾取を批判する記事はこんにちリベラル系メディアを中心にもうすでに沢山読めるので、何を聞いてもさして驚けない(この「慣れ」には大いに問題があるのだが)。著者もまたマスメディア上の「技能実習生イメージ」(弱者、かわいそう、人権剥奪)には食傷気味だったらしく、その紋切り型のイメージにはけっして当てはまらない「実際の外国人労働者」を描写する意気込みで本書執筆に取り掛かった。私としては、ある程度その「実情」は伝わった。全ての技能実習生のうち半分以上(二〇一九年は約一九万人)がベトナム人であることを私は知らなかった。だいたいこういうのはほとんどが中国人だと思っていた。もうそれだけ中国人は豊かになったということか。日本に来るベトナム人実習生はブローカーへの手数料などですでに多額の借金を背負っていて、自由が拘束されている。なのに手取りが十万円以下だったりするので、とても返済がままならない。しかも多くの労働は厳しく危険だ。職場で大怪我をしても労災申請してくれない場合が少なくないらしい。これでは「現代の奴隷労働」と言われるのも無理はない。理念だけがやたら美しいこの制度を「利用」することで最も美味しい思いをしているのはいったい誰なのだろう。そいつはなぜ射殺されずに済んでいるのだろう。この世から中間搾取はなくならないのか。マルクス先生、どうなのですか。なぜ世界中の底辺労働者は決起して暴れないのですか。奴隷根性が骨の髄まで染み込んでしまってもはや自律的な思考が不可能になってしまっているのですか。私は怒りを忘れた人間と愚かな人間が嫌いだ。利益を追求し続けるだけの無邪気な資本家と同じくらい、無教養な労働者が嫌いだ。外国人技能実習管理組合と「送り出し機関」については闇が深そうなのでいずれ詳しく調べてみたい。前者については、『選択』の「日本サンクチュアリ」で取り上げてくれないかな。

きのう図書館ではジジェクのいま読んでいるものを最後まで読むつもりだったけど、デイヴィッド・ベネター『生まれてこない方が良かった(存在してしまうことの害悪)』をたまたま見つけたのでこれを読む。訳文は熟れていない。それでも翻訳を出してくれるだけでも嬉しいですよ。原書はなかなか入手しにくいし、読むのも難儀なので。こういうときほどウニベルシタス叢書で鍛えた「読解力」がものを言う。訳者は二人で、先生とその教え子のようだ。教え子の方は私よりも五つ若い。「高校球児がいつの間にか年下になっていた」と感慨にふける話はもうありふれているが、「著者や訳者に年下を多く見るようになった」としみじみ感じた話はあまり聞かない。読書人口が低下しているからか。ともあれ、むなしく馬齢を重ねてしまった。
それにしても隣の怪獣アクビンがうるさい。

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