「ハロウィン」というバカ発見イベント、世界は今日も凡人どものシャーデンフロイデで溢れ返っている、アリクイの肛門あるいはアボカド原子論、珊瑚と春雷、下痢乱打、
十一月二日
午前十一時五五分起床。緑茶、柿ぴー。佐野元春サムデイが頭から離れない。きょうはほんらい一日中書く日だけど、きのうぜんぶ済ませたので、三時からまた文圃閣に行く。きのうも図書館からの帰宅後ずっと野球を見ていた。まじで野球は時間泥棒。日本シリーズはまだ終わっていなかったみたい。すべてはきょうの大竹耕太郎次第だ。もちろんぜんぜん期待してないけど。ああいう軟投派投手はセ・リーグの打者には通用してもパ・リーグの打者にはきっと通用しない。だいたい大竹はホークスから来たわけだろう。大炎上とまではいかなくても中炎上くらいはするだろう。球審との相性についてもかなり心配だ。(すくなくとも俺の主観によると)このシリーズにおいて一番ガチガチになっているのは球審であり、その判定の気まぐれぶりは目に余る。「ストライクゾーンがカウントによって伸び縮みする」という現象は「プロ野球あるある」で、「審判も人間だから仕方ない」のだけど、それにも限度があるというものだ。阪神は「コントロールで食っている投手」が多いだけに今回そのことが余計に目立っている気がする。こうやって審判が黒子に徹することが難しくなってくると、AI審判の導入を求める声がますます強くなるだろう。
一昨夜『世界文学大系<68>アラビア・ペルシア集』収録のルーミー「精神的マスナヴィー」をぱらぱら読んでいたら、面白い話を見つけた。短いのでそのまま引用する。
どこかでこんな話を聞いたことがある、と思ったら禅の公案だった。たしか、「両手を打つと音がする、鳴っているのは右か左か」といったものだった。鈴木大拙の著作でたびたび紹介されていた。これはたぶん白隠慧鶴の有名な「隻手音声」のバリアントだろう。ペルシアの「神秘主義詩人」ルーミー(本名ジャラール・ウッ・ディン・ムハムマッド)は、白隠より四百年以上も前の人である。こういう「発見」に俺は興奮する。ひょっとしたら白隠はここから想を得て「隻手」公案を作ったのかも知れない。そういえば白隠の著作を俺はまだまともに読んだことがない。あまり興味を感じないからだ。禅書は『無門関』だけで十分だといまも確信している(『臨済録』と『碧巌録』はオマケみたいなもの)。むかし『槐安国語』を図書館から借りたことがあったけど、とちゅうでバカバカしくなって読むのをやめた。だいたい「禅を勉強する」なんて滑稽にもほどがある。そんなのは瞬きや欠伸を練習するようなものじゃないか。だから「禅の修行」とか聞くと俺はいつも落語の「あくび指南」のことを思い出す。「俺に身にもなってみろ、こっちのほうがよっぽど、退屈で、退屈で、ふあああああ、ならねえ」「あのお連れさんのほうが器用だよ」。
もう昼飯食って出掛ける準備しますよ。オッケーグーグル、午後からの降水確率おしえて。