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「抑鬱くん」こんにちは、「強迫さん」こんにちは、冷凍マグロと首くくり三左衛門もしくはポジティブ言説過剰社会への立体的苦言、富士山麓鸚鵡鳴く、

十二月二五日

極点から空虚への転落、次いで空虚から極点への移行。自分でそれと自覚した子供っぽさは解放だけれども、しかつめらしい顔をしたりすれば、それは泥土への埋没である。極点の探求も、それなりに子供っぽさに従属した習慣と化すことがある。これは笑ってやらなければならない。私たちが幸運にも胸のつぶれる思いをするのでないかぎりはである。もしそうなら、恍惚と狂気は近くにある。

ジョルジュ・バタイユ『内的体験(無神学大全)』「第二部 刑苦」(出口裕弘・訳 平凡社)

午後十二時四〇分起床。珈琲、三幸製菓のなんか。ユーチューブで広告なしの「懐メロ」集。休館日。げんざい「強迫さん」が強い。隣人の雑音が気になる。とくに隣のジジイの出す音がダメだ。彼とはけっこう長く立ち話しているのにダメだ。たぶんこういうのを「虫が好かない」というのだ。「同じ空気」を吸いたくない(だからほんのわずかなタバコ臭も許せない)。一番嫌なのは「ドアのガサツな開け閉め」、二番目は「あくび」、三番目は「咳払い」。とにかくその存在を感じたくない。気配自体が気持ち悪い。許容しがたい音がするたび、「侮辱されている」「何かをこっちに伝えようとしている」と自動解釈されてしまう。もうだめだ我慢できない、ちょっとサーキュレーター全開にしてくる。テレサ・テンいいね。「ミソフォニア系」のブログなどを読んでいると、「生活における規範意識」の高い人ほどこの種の苦しみを抱えがちであることが分かる。「もっと静かに閉めろよアホ」「なんでわざわざ音出してアクビするんだよカス」と罵らない日はない。子供の泣き声にも「内心」では極めて厳しい(というかあんな暴力的で汚い雑音が全然気にならないやつは聖人かそうでなければ鈍感なだけだ)。「公園における子供の騒音苦情」が大々的に話題となっていたときも、私は「音に悩まされる人間」の側にしか立てなかった。私はいちおう「良識の人」のつもりでいるので、「子供が大声で遊べない社会」というのがどれほど息苦しく恐ろしいところであるかは分かっているつもりだ。しかしそれとこれとは話が別なのである。気になる音は気になる。嫌な臭いは嫌。世話になっていても嫌いな奴は嫌い。これが生きてる人間ってものなのよ。生きている人間ってのはほんっとに不条理で我が儘なもんなんだよ。おい、この竹内まりやの「駅」は本人歌唱じゃないだろ。声が軽すぎる。いやこっちの話。「周りの人には気を遣うべき」の「べき」が強くなり過ぎるとこの世は凄絶なほどストレスフルな場所になる。図書館でクシャミを傍若無人に連発するオヤジが近くにいれば殴打衝動を抑えるのに多大な脳エネルギーを費やさねばならないし、バイクの空ぶかし白痴集団を見かければあらゆる罵倒語が頭蓋に溢れ返り気絶しそうになる。さしあたり大事なのはそうした「過剰反応」の背景に伏在している「べき論」の専横を食い止めることだ。「べき論」は「正義の使者」ではない。というか「正義感」などニーチェに言わせれば「弱者のルサンチマン」の産物ではなかったか。いちじき「マスク警察」や「自粛警察」というのが沢山いて、私もそういう連中には「やれやれ」といった眼を向けていたが、こと「騒音」にかんしては、おそらく私もそうした連中と同型の心性でいる。「ゴン」とか「ドン」が聞こえるたび、「あんな非常識な奴らは罰せられなければならない」なんて叫んでいるのだから。「隣人の音」にいちいち「過剰反応」することにもう疲れ果てている。どうして「自然」に聞き流せないのだろうか。ある時期から、「こいつさえいなかったらもっと楽に生きられるのに」と思わせる人物がつねに周りにいる。そんな「悪役」のおかげで私は「真の実存不安」から目を逸らすことが出来ているのかも、とずっと前の「日記」でたしか書いた。つまりそうした固定的な「対人問題」が船舶における「バラスト水」のように機能していると。いまおもうとこれはなかなか言い得て妙。いずれにせよジジイを憎むことはこんごも止めらないだろう。どうしようもない。ああああ。

菊池誠壱『借金を返すためにマグロ漁船に乗っていました』(彩図社)を読む。
親の事業の失敗で五〇〇〇万円くらいの借金を背負い、気が付けばマグロ漁船に乗っていた息子の苦労談。読みながら「親、早く自己破産しろ」と思わずにはいられなかったが、問題の渦中にいる人間はどうしても視野が狭くなるから仕方ないね。「連帯保証人」もいることだし。誰もがなんらかのかたちで金のことで悩んでいる。この世がいつも安定して地獄的なのは人がつねに物質的精神的充足を必要としているからだ。経済なんかクソ食らえ、と脱人間志向に燃えない人間がこれほど少ないのは、なぜだろう。私はずいぶん前から「人間であること」を悪趣味過剰の罰ゲームだとしか思えなくなっている。よくこんな年まで首を吊らないで生きられたもんだ。鈍感だからかな? マグロ漁船は重労働な上、パワハラやいじめや怪我は日常茶飯事。「なんで俺が?」と深刻な思索に耽ったりしない著者には苛立ちを禁じ得なかった。十七歳だからしょうがないか。私はどうも理不尽耐性の高い人間が苦手みたい。何か不幸な目にあうとすぐに社会や宇宙のせいにする人間のほうが知的だし「マトモ」だと思っている。だって実際そうだから。「頭の悪い人」ほどなんでも自分のせいにするんだよね。「自己責任イデオロギー」に染まりやすい。だから「ダメな他人」にも厳しくなる。俺の理想は自分に甘く他人にも甘い人間。血抜きの話はなかなか興味深かった。遠洋で獲れたマグロは船上ですぐに血抜き処理される。鮮度の劣化や細菌の繁殖を防ぐためだ。ちなみに「釣りたて」の魚は概してあまりおいしくないらしい。いぜん釣り好きの友人が言っていた。理由はいくつかあるが、旨み成分が生じていないからというのが大きいらしい。だから寝かせて「熟成」させるのだと。「人間にも熟成が必要なのよ」とむかし誰かに言われたのを思い出した。

もう飯食うわ。絹ごし豆腐を温めてカツオ節をいっぱいかける。しかし天気悪いね。さっきからゴロゴロ鳴ってる。きょうも書店には行けないか。ひなびた町の昼下がり、教会の前にたたずみ、喪服の私は、堕天使の肛門に、熱湯をそそぐ。プーチンの睾丸。虐殺現場。モナコの秋に月見草はよく似合う。

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