慟哭の荒野を疾駆する ぽっこりお腹のマミーちゃん さながらジジイのお手盛りの 目糞鼻糞通りゃんせ
一月二十三日
拝啓時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げつつまことかたじけなくも一筆したためさせていただきたく存じたてまつり候。
昨夜日曜日の夜だったが酒は飲みませんでした。酒なんてじつは好きでなかったのかもしれないとこの頃とみに思う。抑鬱気分をかりそめに誤魔かしていただけなんだろう。とはいえ私は「誤魔かし」を否定する者ではない。およそ「生きてそこにある」というこのただならぬ実存的所与においては、「根本的解決」などありえない。今日の悩みは今日の悩みに過ぎないと割り切り、明日以降のことでやたらと取り越し苦労しないようにするがいい。ふっと『星の王子様』の王子と酔っ払いとのやりとりを思い出す。なぜ酒を飲むの、忘れるためだ、なにを忘れたいの、恥ずかしいことさ、なにが恥ずかしいの、酒を飲むのが恥ずかしいんだよ。ほとんどのアル中は何も好き好んで酔っぱらっているわけではない。どうにもやりきれない日常的自我の重力圏から逃れ出るために飲む。
『大学教授のように小説を読む方法』(白水社)を読了。そのなかでキャサリン・マンスフィールドの名短篇『ガーデン・パーティー』を久しぶりに読んだ。この世の悲惨不条理に打ちのめされたあと最後にローラが「人生って、人生って」と嗚咽気味になるぶぶんにはやはり涙が誘われる。人生ってなんて残酷でグロテスクなのと言い切らせないからこそ抜群の哀切効果をもたらしている。
ローラを冥府に向かうペルセポネと重ね合わせる象徴的・アナロジカルな読み込みにはなかなか納得させられるものの、あまりによく出来過ぎているのでいささか眉唾でもあった。ペルセポネはゼウスと豊穣の女神デメーテルのあいだに出来た娘で、ただコレ(娘)と呼ばれることもある。野で花を摘んでいたところ冥府の王ハーデスに誘惑され、その妃となる。牧歌的なポカポカ陽気から冥界への落差のすさまじさ。
たしかに『ガーデン・パーティー』の前半部は花の描写がやたらと目立つ。困苦に満ちた下界からは隔絶されたこのお屋敷を神々の住まうオリュンポス山と重ね見るのに抵抗を感じない。
ちかくで誰かの事故死のあったことを知ってパーティーの中止を訴えるローラがどこか「滑稽」で、それだけに余計に愛らしく悲しく映るのは私だけだろうか。「読んでいる私」はローラの気持ちも分かるし、ローラをたしなめないではいられない母親の気持ちも分かる。ローラと母親の感情的温度差を知りながら読み手の私はどうしていいのか分からない。このオロオロ感にも小説の醍醐味がある。
これとはあまり関係ないかもしれないけど、斎場や火葬場の建設計画があるとその近隣住民はしばしば揉めますね。物件価値が下がるからとかそんな話とはべつに、「他人の死」が居住空間の近辺に「可視化」されることを嫌がる人が結構いる。そんな人達にとって葬儀場は「迷惑施設」以外のなにものでもないらしいのだ。これを文化人類学的に観るとどうなるだろうか。「穢れ」への忌避感情とかいうものが絡んでいるのだろうか。
「生きること」がひたすら苦痛を感じ、それゆえ「死ぬこと」に救済可能性を見出しがちの私には、「死」をそこまで遠ざけたがる人の気持ちがよく分からない。死はたしかに「直視」できない。だがマルティン・ハイデガーなどに説教されずとも、「死の予感」がけっして抽象的な感覚ではないことも分かっている。死は不安の源泉だ。でも一寸先の生も死と同じくらい不安の源泉ではないか。救いようのないこの息苦しき日常と、そこから断絶した死の領域と、どちらかを選べと言われたらどちらを選ぶだろう。というかそもそも、生と死から成る二元論的世界観をそのまま鵜呑みにしていいのだろうか。生も死もいまだ把握し損なっているのではないか。これはかなり厄介な問題だ。
とはいえこの現存在としての「私」は、なんだかんだいいながら、この「生」の生ぬるさのなかに「安住の場」を見出し続けている。なんらかの一貫性の認められるこの日常から断絶された現存在の出現を、私の「無意識」は必死に拒絶し続けているのかもしれない。自覚の有無にかかわらず誰もが死を恐れている、と考えることもしばしばだ。「死なんかこわくない」なんていう言説が世に大量に出回っていることこそ人々が死を心底おそれている証左なのだ、とも。
本を読了した夕方五時ごろ、ある友人のかねてからの誘いでなんとかセラピーの体験に向かう。二十分間、「ある特殊なマット」の上で仰向けに寝るだけ。心なし頭が「すっきり」したようだが、そりゃあ眼を閉じて暫くじっとしているだけで「すっきり」するよね。根っからのskepticである私からすれば、「汚れが溜まる」という観念がいまいち掴めない。このセラピーにはいろいろコースがあるらしく、高いものだと八千円以上もする。ぎょぎょぎょ。金も足もない私はとても通えないな。それにいつも<どす黒い魂>を健全に持て余していたいし。隣の無神経な爺さんや世の愚物どもへの怒りを、学究エネルギーや執筆エネルギーに効率よく転換しながら生きて行くしかない。縁なき衆生ですみません。吾輩は思想界の大魔王になりたいのである。そして周囲のフシアナどもをぜんいんことごとく堕落させてやりたいのである。帰り際、賞味期限切れの食品をタダでいただく。ラッキー。タダより安い物はない。どうもありがとう。大切に賞味いたします。
いまさっき飯が炊けました。小松菜の味噌スープ作って昼飯。ライブラリーの休みだからこのあと散歩でもします。冬季の北陸はロング・ウォーキングには向かない。また大雪が降るとか言ってやがるし。いい加減にしやがれってんだ。
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