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愛がたりない
【数か月前に書いたものです。しばらく寝かせていました。そろそろ頃合いかなあ、と思い記事に挙げました。そんな感じなので私の記事には辻褄の合わないことが多々あるかもしれません。どうぞ悪しからずご了承ください】
ある事柄でここしばらく頭の中がずっと悶々としており、本を読んだら「悶々するのは自分に観念が足りないからだ」と気付き、今度は「観念」についての本を読み「どうして私には観念がこうも足りないのだろう」などと考えてみたりして。ちなみに「観念」が足りないとは、小説や劇中で「いい加減、観念しなさい。」といったセリフがあるように、往生際が悪く覚悟が無い様、と個人的に解釈しています。そうなのです。確かに私は何かと言うと右往左往をして自動思考に反芻思考、心の靄が晴れたかと思えば次の日にはまた靄がかかる、こんな日々の繰り返しです。というかこれが通常運転、「我悩む故に我あり」くらいに思っていたりもしています。
そんな鬱々悶々の最中、私はとある方のライブへ行ってきました。素敵な歌声はさることながら人間的にも大変魅力的な方で、常にファンやスタッフ、共演者の方々に対する感謝や愛に満ちた言動にあふれ、発する言葉全てが哲学、経典。でも深い慈愛と温かさで全てを包み込むその包容力といったら。大きな愛を歌にのせ観客一人ひとりの心の奥深くまでしっかりと届けてくださる素晴らしいアーティストさんです。
私は座席からその姿、歌声やMCでのお話しぶりを見つめていたら何とわかってしまいました。私には「愛がたりない」という厳然たる事実を…。
がーん。結構、がーん。愛がたりないんだ私…。そりゃあ、世界で大活躍されるお方と比較すること自体、烏滸がましいし、足元にも到底及ばないことは自明ではあります。それに、私自身、外向的ではないから気軽に愛想を振りまけないことは自覚しているし。だけど関わる人達には失礼の無いよう、誠実であるよう努めてきたつもりだし。それでもそれは量とか比較とかの問題などではなくて、私には他者や外界に対する愛が全部とは言わないが一部どこかがやっぱり欠落している。
何なら、歌声やそのお姿から「愛」のおすそ分けにちゃっかり預かりたい、何かライブを観たご利益が私にもあるかもしれない、なんて軽薄で不届きなことを目論んでいたくらいだし。客席に座りながら、自分の卑小さを恥じ入ると共に愛のたりなさをとことん自覚させられてしまったのでした。
こんな調子だったので、この日は目に涙を浮かべるほどに歌声に感動しつつも複雑な思いがあれこれ交錯してその場にどっぷり浸かることは出来ませんでした。
ところで、私は何をもって私の「愛のたりなさ」を述べているかと言うと、それは自身がある対象に対して真の愛情をかけるべき事態にあるとき、愛情ではなく心の奥底に潜む「恐怖」が刺激され、不安や焦燥、自責、憎悪に象徴される恐怖感情が真っ先に反応することを言い表しているのだと捉えています。
何故こんな私になってしまったのか…。おそらく遠い昔、愛で満たすべき容れものに愛を満たすことが出来なかった。愛情の代わりに恐怖という感情を自分でその容れものに注いでしまった。そうゆうことなのかなと思います。
本当は両親を含む様々な方や多くの機会から色々な種類の愛情をたくさん与えられていたはずです。ですが、私はある理由から自らの意志で他者から贈られた愛情を受け取ることを拒んだのです。だから、私の世界においては、安らぎと不安、喜びと悲しみ、十全と空虚らが今もなお内在しており、それらをあやしたり、取り繕ったり、昇華させたりして両極の概念に囚われないよう長いこと制御してきました。いえ、完全に制御できていないし、自らに愛情を注げきれていないからこそ今もなおこうして悶々としているのです…。
「観念がたりない」という様、つまりは覚悟を決められず気迷い事であれこれ逡巡すること、これの行き着く先が自分の愛のたりなさ(恐怖感情の反応)だということがよーくわかりました。ライブの帰り道の電車の中で。
なので、実際の私は目の前の事物や対象者に対し、誠実に色々思い悩んだり、逡巡している訳では無くて、心根の奥深いところに存在する恐怖に恐れおののいているだけなのです。目の前のことに心から向き合っているのでは決して無いのです。結局のところ、私は外界の対象(人や物事)に心から対峙していないのです。だからそのような意味でも私は対象への愛情が全く足りておらず、愛情を注ぐことが出来ていないのです。
自分自身の内奥に潜む深い恐怖感情と愛情の乏しさは、ユングのいうところの謂わば「影(シャドウ)」にあたるものではないかと思います。意識のうえでは自身の影の存在を抑圧しているため、影を刺激する出来事に触れたとき「他者に対する恐怖」という表層的な姿に形を変え心の投影として表れるのでしょう。
それでも私の内面にちょっと不思議な変容がありました。それは私の心をこれまでチクリチクリと刺し続け、鬱々悶々とさせてきた小さな棘の在り処をライブ参戦の拍子に思いがけず見つけたことです。
このような自分自身の思わぬ内面に気付かせてくれたアーティストさんには感謝の念を禁じ得ません。そして「深くて大きな慈愛に満ちている人」のパワーというものが、とても純粋で崇高で人々に変容をもたらすものなのだということを今回の体験、気付きをもって改めて体感、納得することができました。なんだかとても貴重な体験をしてしまいました。
というわけで、今更ながら「愛がたりない」事実にショックを受けつつも、ちょっと良い経験をしちゃったかも、なんてホクホクしている自分もいたりして、本当にげんきんで都合の良い性格です。以上、お目通しをいただき有難うございました。