源氏物語より~『紫の姫の物語』11
13 藤壺の宮の章
「それでは、中宮さま、お休みなさいませ」
「ええ、お休みなさい」
女房たちが廂の間に下がると、わたくしは一人で、火桶を置いた暖かい塗籠に入った。四方が壁という空間は、とても落ち着ける。寒い季節は、ここで寝るのが好きだった。心ゆくまで好きな絵や物語をめくったり、とろりと甘いお酒を飲んだり。
未亡人の身というのは、慣れてみれば、ずいぶんと気楽なものだった。寝るも起きるも、食事の時刻も、全て自分だけの都合でいいのだから。
もちろん、院を失った寂しさはあるけれど、弱っていく人を励まし続ける看病の日々に、かなり疲れていたのも事実。寒い夜中や明け方、苦しげなお咳を聞いて、起き上がることもよくあった。白湯を差し上げたり、お薬を選んだり、手足や背中をさすったり、お眠りになるまで物語を朗読していたり。
むろん、女房たちも控えているけれど、妻であるわたくしが、知らん顔して寝ているわけにはいかない。真っ先に起きて、最後までお側に付き添うのが務め。おかげで、こちらが冷えきってしまったり、寝不足で辛かったり。
それでも、決して疲れたという顔はできなかった。病の身の院が、こちらに気を遣われるのでは、かえってお気の毒だから。
自分を励まして明るく振る舞い、あちこちに季節の花を飾り、院のお好きな香を焚き、女房たちと心を合わせて楽しい話題を探し、御所が陰気にならないように努力した。おかげで院を無事に見送ることができ、こうして一人で伸び伸び眠れるようになったのは、本当に有り難いこと。
欲を言えば、幼い東宮のために、もう少し長生きしていただきたかったけれど。
でも、寿命というものは、仕方のないものだから。あの方は今頃、最愛の桐壺の更衣とお二人、極楽浄土で楽しく過ごされているはずよ。
わたくしの場合は、死んでも極楽へは行けないだろうから、せめて、あまりひどい地獄には落ちませんようにと祈るだけ。
あとの心配は、宮中で育てられている東宮の身の安全。まだ幼くとも、立派な帝となるべく勉学の日々だから、生みの母とはいえ、そう入り浸りにもなれないのが辛いところ……わたくしが宮中に出入りすることは、弘徽殿さまからもよく思われないし……あの方はまったく、呆れるほどに壮健でいらっしゃる……
ところが、四方を塞がれたはずの密室に、誰かが動く気配があった。わたくしのものではない、甘い香りが漂う。はっとして身を起こすと、几帳の陰から覚えのある声がささやいた。
「わたしです、藤壺さま」
光君。
何ということを。
よくも警護の者たちに見付からず、ここまで入り込んできたもの。まさか、また、王の命婦が手引きしたのかしら。でも、彼女はもう、二度といたしませんと泣いて誓ってくれた。あの誓いが、そう簡単に破られるものとは思えない。では、若手の女房の誰か。もしや光君に口説かれ、甘いことを言われて、それを信じたのでは。
『こっそりきみに会いに行くから、掛け金を外しておいておくれ』
などと騙されたのかもしれない。女たちはみな、光君の甘いささやきに弱いから。それは、このわたくし自身もそうだけれど。
帝の御子という、高貴な血筋。
ありとあらゆる才に恵まれた、美しくりりしい貴公子。
この方が内裏の簀子縁を歩いていくだけで、御簾の陰の女房たちが、一斉に放心のため息をついた。折々の行事で見事な舞いを披露なさる時などは、後宮中の女たちがひしめき合い、我を忘れてうっとりと見とれたもの。
その貴公子が、少年の頃から、このわたくしに恋焦がれてきたとおっしゃる。人目を避けてわたくしを口説き、手を握ろうとなさる。聞いてはいけないと思いながら、つい熱い言葉に耳を傾けてしまい、はっとして逃げ出したことが、幾度あったことか。
そしてとうとう、あの強引な逢瀬。
取り返しのつかない罪。
院は本当に、お気付きではなかったのだろうか。物の怪のせいで出産の時期がずれたなどという苦しい言い訳を、真に受けて下さったのか。
人はしばしば、都合の悪いことを物の怪のせいにする。酔って喧嘩をした時。仕事をしくじった時。危険な本音を叫んでしまった時。物の怪の側では、さぞかし迷惑に感じているに違いない。
でも、たとえ疑いを持たれたにしても、院はそんなことは一言もおっしゃらなかった。光君そっくりの皇子を、ご自分の御子として愛して下さり、東宮に立てて下さった。だからこそ、他の誰一人怪しまずに、今日まで無事に過ぎてきている。
それなのに、その平安を打ち砕くような真似を、この人は。
「お会いしたかった」
光君はわたくしの手を取り、低くささやかれる。
「あなたがお一人になって、日々どんなに寂しい思い、心細い思いをなさっているかと、居ても立ってもいられなくて」
とんでもない。わたくしは、呑気な未亡人暮らしを楽しんでいたのよ。勝手に悲劇を作り上げないで。寂しさはあるけれど、精一杯お世話して見送ったことに満足しているわ。あとは、東宮の成長を見守るだけ。もしも悲劇が起こるとしたら、あなたがこうして、危ない真似をするせいよ。
「もう大丈夫、わたくしがお守りします。こうしていつも、あなたのことを思っていますから」
強い力でぎゅっと抱きしめられ、懐かしい香りに包まれた。甘い梅花の燻りと、青草のような青年の匂い。
晩年のあの方はもう、こんな力など失くしていた。若くて健やかな、荒々しいほどの雄の力に囚われると、わたくしもつい、心地よさに気が遠くなりかける。分別が溶けて流れそうになる。
いけない、いけないと思いながら、この情熱に巻き込まれてしまい、他のことを全て忘れてしまう熱い時間があったのは事実。
でも、そんなことには限度がある。もう、危険な逢瀬を繰り返すことはできない。もしも弘徽殿の大后に、東宮の血筋を疑われるようなことになったら。
どちらにしても、帝の血が流れていることには変わりないから、皇統を断絶させたという大逆にはならないのが、せめてもの救いだけれど。
そんな言い訳、弘徽殿さまには通用しない。
わたくし自身はどうなっても罪の報いだけれど、あの子の将来だけは守らなくては。でないと、院のお気持ちをも無駄にすることになってしまう。
「やめて!!」
わたくしは精一杯の力で、光君を突き飛ばした。こんな扱いを受けたことのない貴公子は、唖然としている。
「藤壺さま……」
「まだ、おわかりにならないの。わたくしたちは、もう終わっているのです。最初から、あってはならない交わりでした。もう、わたくしのことは忘れて下さい。あなたには、紫の上という方がいらっしゃるでしょう」
わたくしの姪。会ったことはないけれど、女房たちの噂では、わたくしによく似ているという。きっと、わたくしよりも素直で愛らしく、罪のない、可憐な姫君に違いない。
「待って下さい。違います。あなたを偲ぶよすがに引き取ったのです。姫は、あなたの姪だから。あなたに近しいものなら、何でも手に入れたかった。一番に愛しているのは、あなたです」
光君は懸命に言い訳なさるけれど、でも、当の紫の上は、自分本人が愛されていると信じているはず。
「いいえ。そんなことを言ってはいけません。あなたを信じている方を、どうぞ大切にして差し上げて」
もしも、紫の上がわたくしのことを知ったら、悲しむわ。余計なことを知らないまま、幸せに過ごしてくれる方がいい。せっかく光君と夫婦になったのだから、末長く睦まじく暮らせるようでなくては嘘よ。
その時、ふと思った。
もしかしたら、人はこうして、終わりのない思慕の連鎖を続けていくものなのかもしれない。片思いをしている人に、報われない片思い。また、誰かがその人に片思い。
思う相手に、等量に思い返されるということは、きっと、ごくごく稀な出来事なのではないだろうか。
亡くなられた院も、それを気にしていらした。わたくしを入内させ、桐壺の更衣の身代わりにしてしまってすまないと、幾度もおっしゃっていた。こんな年寄りに付き合わせて、若い盛りを過ごさせてしまったと。
わたくしも以前は、若い女房たちと同じく、明るくて颯爽とした光君に憧れていたけれど。
いつからか、わかるようになってきた。この方の明るさは、ただの幼さ。苦難によって鍛えられた、本当の強さ、朗らかさとは違う。人の都合に構わず、自分の望みを押し通せる者が持つ、無邪気な傲慢さにすぎない。
弘徽殿の大后が、この傲慢を許せないとお思いになる気持ちも、無理はないと思ってしまうほど。
それよりも、わたくしや回りの女たち、伺候する臣下の誰彼にも、遠い地方の民にも、公正で寛大な心遣いをして下さったあの方こそが、本当の男性というもの。
桐壺の更衣を失ったことで、あの方は深く苦しまれ、そこからようやく、本物の帝になられたのだと思う。
わたくしは、その素晴らしい方に愛されていた。もう、これ以上、未練がましい真似はするべきではない。いくら、わたくしの肉体が、この人の熱情を欲していようとも。
そう、肉欲。
わたくしがこの方に魅かれるのは、ただそのためなのだ。
それならば、断てる。わたくしには、もっと大事なものがあるのだから。
「わたくしは、これから、東宮のためにだけ生きていきます。あなたはどうか、東宮の後見という立場でお力添え下さい」
と言い渡した。この方もいつか、人の心がわかる大人の男性になるかもしれない。でも、その過程に付き合うのは、わたくしではない。この方の伴侶は、若い紫の上。
「もちろん、もちろん後見はします」
光君は焦って言われる。
「若君のために、何でもします。どうか、頼りにして下さい。ですが、こうしてあなたとお会いできれば、より一層、力が湧くというものです。わたしがどれだけ、あなたに会いたくて、機会を窺っていたか……」
「いいえ、聞きません。どうか、わたくしを困らせないで」
「でも、藤壺さま」
「いいえ。お帰りになって。もう二度と、二人きりではお会いしません」
わたくしを捕らえ、強引に押し倒そうとする青年と揉み合い、幾度も厳しく叱り付け、やっとのことで塗籠の外に押し出した時には、もう夜明けが迫っていた。
わたくしはがっくりと疲れはて、震えがきてしまう。女房たちに悟られずに済んだことが、せめてもの救い……
それとも、みんな密かに聞き耳を立てていて、これから噂が広まるのかしら。あの妊娠の時でさえ、堅く口を閉ざしてくれていた者たちだから、まさか、そんなことにはならないと思うけれど。
寝床に就いて、真綿入りの衾を深く引きかぶった。どうか、光君が誰にも見咎められず、無事に邸の外へ抜け出せますように。警護の者に発見されて斬り付けられたり、矢を射掛けられたりしませんように。
でも、わたくしの方も、長く眠るわけにはいかない。女房たちが起きてきたら、それに合わせて起き上がらなくては。そして、気持ちよく目覚めたふりをしなくては。
この高貴な残り香が、勘のいい女房たちに、不審がられなければいいのだけれど。
それにしても、これからいったい、どうしよう。あの様子では、近いうち、また忍び込んでくるかもしれない。こんな危うい思いは、もうたくさんなのに。
殿方は、その時の熱情だけで後先考えずに動けるけれど、女は違う。もう一度妊娠などということになったら、今度こそ終わり。
背の君を失った身では、もはや、ごまかしようがない。喪も明けないうちに身籠もるとは、父親はいったい誰だという、きつい詮議になってしまう。
そして、誰かが光君の姿をちらとでも目撃していたら、そこから、東宮の血筋まで追求されかねない。
わずかでも疑惑が生じれば、その機会を逃す弘徽殿さまではないだろう。あの子は、東宮位を剥奪される。
いいえ、それだけで済むとは限らない。弘徽殿さまは、いざとなったら、邪魔者に毒を盛るくらいのことはなさる方。守らなければ。どんなことをしてでも、あの子を守らなくては。
その時、わたくしの頭に浮かんだ方法は、ただ一つだけだった。
わたくしが、女であることを捨てること。
この世に生きながら、この世の栄枯盛衰の外に身を置くこと。
本当は、それをしたくはなかった。あの方が、そんなことはしないようにと、わざわざ言い遺して下さったのだもの。六条の御息所のように、源典侍のように、美しく装い、華やかな催しに顔を出し、残る日々を楽しく過ごすようにと。
でも、他には、世間を納得させつつ、なおかつ光君の執着を断ち切るような道がない。なまなかなことでは、あの強引さを退けられないとわかっている。
(あなた、お許し下さい。東宮のためです)
と心で祈った。
(わたくしには、もう、あの子しかいないのですから。どんなことをしてでも、あの子だけは守ります。どうか、ご加護を)
光君にはまだ、我慢というものができない。何かを欲しいとなったら、駄々っ子と変わらないのだ。それを止めるには、わたくしの方が決断しなくては。
「紫の姫の物語」12に続く
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