見出し画像

源氏物語より~『紫の姫の物語』5

6 紫の姫の章

 空が低く垂れ込め、秋だというのに、不気味に生暖かい風が吹く。木々がざわめき、散り敷いた枯れ葉が吹き上げられる。

 湿気の強い、いやな夕方だった。女房たちがあちらで群れ、こちらで群れして、暗い顔で何かささやきあっている。どうやら凶事らしい。

西の対から出て、女房たちが集まっている寝殿のひさしの間を覗き、

「何かあったの?」

 と尋ねると、少納言はややためらい、それから教えてくれた。葵の上さまが、亡くなったのだと。お兄さまは左大臣邸に詰めたまま、半狂乱で泣き伏していらっしゃるとか。

 何ということ。

 つい昨日、無事に若君誕生という知らせが来たばかりなのに。

「安産ではなかったの」

「第一報では、そういう話でしたが。後産あとざんが、うまくいかなかったのかもしれません」

「後産て、なに?」

 少納言は額を押さえ、何か悩むようだったけれど、やがて顔を上げ、わたくしを几帳の陰に座らせると、じっくり時間をかけて説明してくれた。どうやって子供ができるのか。子供はどこから生まれてくるのか。その時に、どんな危険があるものなのか。

 わたくしは頭がくらくらして、しばらく気持ちの整理がつかない。子供って、お臍から生まれるのではなかったのね。わたくし以外はみんな知っていたなんて、ひどいわ。それならわたくしにも、もっと早く、正しい知識を教えてくれればよかったのに。

 それにまた、話だけでは、完全に理解しきれない部分もある。子供の種を女の体内に送り込むって、具体的にはどうするの???

 それがなぜ、男の人には楽しいことなの???

 犬の交尾と同じといっても、人間と犬では、まるで違うじゃないの。

 あれこれ考えているうち、思い出したのは、去年、馬で迷子になった時、三人連れの女たちに聞かされたことだった。

 ようやく、理解の光が差した気がする。女を裸にして楽しむというのは、そういうことだったのね。

 では、お兄さまもやはり、よそではそういうことをしているんだわ。その結果が、葵の上さまのご懐妊。

 想像しかけて、思わず、頭を振ってしまった。そんな変なこと、やはり考えたくない。それに、わたくしには関係ないし。

 わたくしはこのまま一生、お兄さまの元で守られて過ごすのだから、よその男性に種を送り込まれるなんて、そんな不気味な、おぞましい目に遭わずに済むわ。そうしたら、お産で死ぬこともないのだし。

 とにかく、お兄さまが帰っていらしたら、精一杯慰めてあげよう、とだけ思った。葵の上さまもお気の毒だし、お兄さまも可哀想。せっかく生まれた若君も、お母さまがいないままで育つなんて。

 わたくしもお兄さまも、お母さまというものには縁が薄かった。二人とも、頼りのお祖母さまにも、早いうちに死に別れてしまった。だからこそ、今日まで互いに寄り添い、慰め合い、笑い合って過ごしてきたのだ。

 そのお兄さまを、近頃はすっかり葵の上さまに取られてしまったようで、本当はちょっぴり、いいえ、かなり寂しかったし、恨めしかったのだけれど、まさか亡くなるなんて思わなかった。

 わたくしは自分の部屋に戻ると、お祖母さまの形見の数珠を握って、懸命にお祈りをした。葵の上さまが亡くなったのはお産のせいで、わたくしが何かしたわけではないけれど、それでもお兄さまの悲しみ、左大臣家の人々の嘆きを思うと、自分の心根が情けない。

 恨めしいなんて思って、ごめんなさい。

 やきもちを焼いたりして、ごめんなさい。

 一度もお目にかかったことはないけれど、お兄さまの大事な奥さま。若君のお母さま。どうか、あの世ではちすうてなに座り、ゆったりお過ごしになれますように。

 現世に生きる者はみな、死んだ後、地獄か極楽のどちらかへ行くという。本当かどうかは知らないけれど(だって、あの世から戻ってきた人はいないもの)、よほどの悪人でない限り、極楽浄土へ行けるはず。葵の上さまも、一足先に美しい世界へ行かれただけ。そこで安らかに過ごしていらっしゃる。そう思いたい。

 あ、そうだわ。

 いつか、わたくしがあの世へ行ったら、一人で蓮の台に座るのかしら。夫婦なら、同じ蓮に乗れるというけれど。わたくしとお兄さまは、そうではないものね。お兄さまは、葵の上さまの隣に座るんだわ。それはちょっと、寂しいかも。

 そこまで思って、頭を振った。

 何をばかなこと、考えているのかしら。まじめにお祈りしなくては。やきもちばかり焼いていると、わたくしこそ、極楽へ行けなくなってしまうわ。

 ***

 お兄さまは四十九日が過ぎるまで、左大臣家に籠もっていらした。ようやくこの二条院にお戻りになった時は、顔色も悪く、げっそりやつれていらっしゃる。

 そのお姿を見ただけで、どれだけ葵の上さまを愛していらしたか、痛いほどわかってしまった。わたくしにできることは、精々、滋養のあるお食事を整えて差し上げるくらい。

「お兄さま、ずいぶんおやつれですわ。お気持ちはわかりますけど、元気をお出しになって。なるべく、たくさん召し上がってね」

 側に付いて、あれこれ世話を焼いていたら、ようやく微笑んでくれる。

「ありがとう、紫の君。あなたにも、心配かけたね。長いこと留守にして、すまなかった。こちらのことも、気にかかっていたのだけれど、でも、わたしがいなくなると、あちらの方々も寂しいだろうと思ってね」

 しんみりした、力のない微笑みなので、こちらが泣きたくなってしまう。以前のお兄さまは、子犬に譬えたくなるほど元気で、笑いたがりで、ふまじめさんだったのに。

 ここは、わたくしがその分、明るく振る舞わないと。

「ええ。お兄さまがお留守だと、女房たちも張り合いがなくて、お庭の草木も萎れて見えるくらい。わたくしも時々、寂しくて眠れませんでした。でも、左大臣家の方々は、お兄さまのお姿で、ずいぶん心強かったと思いますわ。これからは、若君さまの成長を楽しみにできますし。どんな赤ちゃんですの? お顔はどちらに似ていらっしゃる? きっと将来は、宮中の女性たちを騒がせるようにおなりですわ」

 強いて気を引き立てて、夕霧さまという若君の様子を聞き、お留守の間の出来事などを、とりとめなくしゃべった。気がつくと、お兄さまは黙ったまま、わたくしの顔をじっと眺めていらっしゃる。調子に乗って、軽薄にしゃべりすぎたかしら。心が疲れている人には、うるさかったかも。

「あの、もうお休みになりますか?」

 と尋ねたら、にっこり微笑んでくれて、

「いや。もう少し、あなたと話していたいな」

 と言われたので、ほっとした。

「うるさくして、ごめんなさい」

「とんでもない。あなたの声を聞いているだけで、楽になってくる。それに、いつの間にか、ずいぶん大人になったのだね」

 しみじみと優しく言われ、嬉しかった。もう、お守りされる子供ではなく、対等の話相手になれるということだもの。

「当たり前ですわ。いつまでも、北山の雀っ子じゃありません」

 と威張ってみせた。するとようやく、お兄さまは、やや明るい笑みになる。

「あなたが元気で嬉しいよ。わたしも、その元気を少し分けてもらえる気がする」

 よかった。この分なら、お兄さまもじきに回復するわ。宮中でお務めをしたり、管弦の宴に出たりという、普段の生活に戻れるでしょう。もちろん、葵の上さまのことは、一生、お兄さまの心に沈んで残るだろうけれど。

 その時、ふと思ってしまった。

 いつか将来、わたくしがお兄さまより先に死んだら。

 お兄さまは、どのくらい泣いてくれるのかしら。その後、すぐにまた、笑えるようになってしまうのかしら。

 ずうっと泣き続けなのも心配だけれど、すぐに回復されてしまうのも悲しい。せめて何年かは、思い出して涙ぐんでもらいたいわ。

 でも、年の順からいえば、わたくしがお兄さまを看取る側。逆になるよりも、その方がいいわね。お兄さまを後へ残していくのでは、たとえ極楽往生できても、心残りで仕方ないもの。

7 六条の御息所の章

 坊やが訪ねてきた。本当に久しぶり。

 鈍色にびいろの喪服姿のせいもあるけれど、見るからにやつれ、悄然としているのに驚いた。

 不思議なことだわ。それほど、葵の上を愛していたとは思えないのに。やはり、子供が生まれたことで、絆が深まったというわけかしら。

 女房たちを下がらせ、二人きりになってから話を促すと、坊やは幾度も鼻をすすりながら語った。

「まさか、死ぬなんて思わなかった。女房たちも大丈夫だと言うし、じきに元気になるものと思って。でも、本人は、わたしが顔を見に行った時、静かに泣いていたんです。予感があったのかもしれない。このまま回復しないと」

 お産で力を使い果たした葵の上は、ぐったりと産屋に横たわったまま、静かな泣き笑いで告げたのだという。

 ――本当は、最初から、お慕いしていました。でも、あなたのお心がわたくしにないのがわかっていたので、意地になっていたの。愚かでした。もっと素直になって、あなたに甘えればよかった……

 坊やは愕然として、初めて、妻への愛情に目覚めたらしい。

『わたしこそ、あなたに馬鹿にされまいとして、つい強がって。誇り高いあなたが、臣下の妻ではさぞご不満だろうと、いじけていたのです。とんでもない間違いだった。これからは、睦まじい夫婦になりましょう。遅くはありません。共に白髪になるまで、ずっと一緒にいられるのだから』

 と涙ながらに誓い、眠る間も手を握って付き添ったとか。目覚めれば髪を撫で、肩を支えて薬湯を飲ませ、女房たちより親身に世話を焼き、いったんは葵の上も、明るい顔になったという。

 ――嬉しい。生きていて、よかった。わたくし、ずっとあなたの妻でいられるのですね……

 翌日には容態も安定して、光君もやや安堵し、左大臣や頭の中将たちと共に、公務のために参内したところで、急遽呼び戻された。慌てて左大臣邸に駆け戻った時は、葵の上は既に、息が絶えていたとか。

 出産は怖い。何が起こるかわからない。わたくしの場合は幸いにも安産だったけれど、葵の上は運が悪かった。懸命の祈祷きとう御修法みずほうが行われる中、妻の手を握り、名前を呼び、これからいくらでも大事にするからと誓ったにもかかわらず、葵の上は蘇ることはなかった。

 以来、坊やはずっと泣き続け、自分を責め続けてきたらしい。

「本当は、女らしくて優しい人だったのに。わたしが愚かだったばっかりに、悲しい思いをさせて。くだらない浮かれ歩きをして、誇り高いあの人を怒らせて、ずっとすれ違ってばかりいて」

 と懐紙ふところがみを目に当て、鼻をすする。

 可哀想にね。わたくしに慰めて欲しくて、ここへ来たのね。自慢の姫を亡くした左大臣家の人々も、さぞかし嘆き悲しんでいることでしょう。

 でも、わたくしにとって、その悲しみは既に他人のものだった。既に、別れを決めていたから。

(その〝くだらない浮かれ歩き〟の中に、わたくしのことも入っているんでしょう?)

 坊やの心が他の誰かにあることは、わたくしも知っていた。だから、期待はするまいと思っていた。

 結婚までは望まない。古い恋人として重んじてもらえれば、それで満足できると。いえ、満足しなければならないと。

 その支えが打ち砕かれたのは、あの車争いの事件の時。

 葵の上に責任があるとは思わない。深窓の姫君なのだし、懐妊中だったのだから、郎党たちの狼藉を止められないのは仕方ない。祭りの興奮の中では、酒に酔った若者の喧嘩や乱暴くらい、よくあること。決して愉快ではなかったけれど、左大臣家からは、丁重なお詫びの使いも来たことだし。

 問題は、光君がその事件を知っても、このわたくしを愛人のままで置いておくこと。

 わたくしが正妻の側の郎党から愛人呼ばわりされ、車を押しのけられる侮辱を受けたことは、都中に広まってしまっている。おまけに本祭の日には、二条の女と一緒だったとか。

 古い女同士を争わせておいて、自分は新しい女に夢中。

 いくらわたくしが超然と構えていても、世間はわたくしを哀れむ。あるいは、こっそりと笑う。

 長い付き合いなのに、妻にしてもらえない女。

 もはや盛りは過ぎて、色香は褪せているのだろう。源氏の君も、扱いに困っているのだろう、と。

 わたくしがとりすがって、結婚結婚と困らせているわけではない。実際には、わたくしよりも、わたくしの女房たちが待ち望んでいること。わたくしが、天下の光君から妻として望まれること――それこそが、『当代最高の貴婦人』である証だから。すなわち、仕える彼女たちの面目だから。

 本当に結婚してくれ、というのではない。ただ、申し込んでくれるだけでよかった。そして、そのことを世間に知らせてくれれば。

 そうしたら、わたくしは、感謝を持って断ることができた。今の暮らしで満足しているから、と。忠実な女房たちも、それで納得できただろう。お方さまは、ご自分の主義で結婚なさらないのだと。

 さもなければ、坊やが左大臣家に厳重な抗議をしてくれるだけでもよかった。六条の御息所への侮辱は自分が許さないと、世間にはっきりわかるように。

 でも、そのどちらの解決策も、坊やは採らなかった。ただ、他人事のような顔をして、見舞いの文を寄越したきり。後ろ盾である左大臣家に文句をつけるようなことは、たぶん、怖くてできないのだ。

 確かに、一度は自身で訪ねてきた坊やを、わたくしが追い返させたのだけれど、それは、わたくしが傷ついていることを知らせるため。

 わたくしの立場を理解して、解決策を提示するべきだったのよ。それができるのは、坊やただ一人なのだから。

 でも、それがないために、わたくしは依然、哀れな立場で宙吊りになったまま。

 坊やは葵の上の出産にかかりきりで、あるいは、二条邸の女の機嫌を取るのに忙しくて、わたくしのことなど、どうでもよくなっていたのだろう。せめて再度の訪問がないものか、期待して待ち続けていた自分が、自分で哀れになる。

 そして、やっと来てくれたと思ったら、ただひたすら、自分の苦しみを訴えるだけ。

 自分が甘えたい時だけやって来て、わたくしの膝に頭をこすり付けるのね。母親のようなものだから、無限に甘えられると思っているのね。いつでもわたくしが、あなたのためだけに存在していると。

 生憎と、わたくしは生身の女。

 自分自身の欲も夢もある。誇りもある。

 これまでずっと、坊やを愛しいと思い、真心を注いで可愛がってきたつもりだけれど、これで性根がわかったというもの。

 甘ったれの子供よ、あなたは。

 死んだ妻を思って、ぐずぐず泣いているといいわ。

 あなたの妻の他にも、傷ついている女はいるというのに、それはまるで見えていないのだから。

 もはや、説明する気にもなれない。女の気持ちなんて、説明してくれなければわからない、と男たちは言うけれど、それは責任逃れ。最初から、相手をわかろうとする気持ちを持っていないからよ。女の側にだけ、男の気持ちをわかれ、男を立てろ、男に尽くせと強要しておいて。

 やがて、その坊やが、気付いたように顔を上げた。

「今日は、お顔を見せて下さらないのですか?」

 いつもはじかに会うのだけれど、今夜は御簾みすを隔てていた。坊やからは、わたくしの輪郭しか見えないはず。

「わたくしも、そろそろ身を慎みませんと。近々、野宮ののみやに移る予定ですの」

 すまして言うと、坊やが凍りつくのがわかった。

「まさか……」

 何が、まさかよ。当然の結果でしょう。

 わたくしが、実の娘より、あなたの方を選ぶと思い込んでいたの。あなたにとってわたくしは、大勢の中の一人にすぎないのに。

「ご存じの通り、わたくしの娘が、伊勢の斎宮に決まっております。ただいま、潔斎けっさいのために嵯峨野さがのの野宮におりますが、わたくしも身を清め、伊勢に同行するつもりです。娘はまだ、ほんの子供ですので、わたくしが付いていませんと」

 坊やは御簾をはねのけ、母屋に入り込んできた。こういう時は素早い。わたくしににじり寄って、衣の端をつかむ。

「嘘でしょう、嘘ですよね。おかしなことを、おっしゃらないでください」

 慌てふためくさまを見て、少しだけ溜飲が下がった。わたくしもまだ、少しは未練を持たれているわけだわ。

「何が、おかしなことですの」

「だめです、そんなこと。伊勢になんか行かれたら、都に戻れるのはいつの日か、わからないじゃありませんか。伊勢行きは、斎宮さまご本人だけでいいはずです。お供は大勢付き従うのですから、不自由などありませんよ。何も、母君が同行されなくとも。そんな前例、ないじゃありませんか」

 そう。伊勢の斎宮に任じられた皇女は、あとは帝の代替わりの時まで、伊勢で神に仕えて暮らすことになる。いったん都を離れれば、戻れる日は何十年先かわからない。今の帝はまだお若いのだから、光君とも、これが永劫の別れになるかもしれない。

 正直、少しはひるむ気持ちもあるけれど、このまま都にいても、惨めなことが増えるだけだとわかっていた。わたくしが六条邸の女主人として時めき、多くの貴族、文人に一目置かれている現状には、若い光君がわたくしに夢中、という評判が大きくものをいっている。

 誰もが憧れる、『当代最高の貴婦人』。あの光君ですら、六条の御息所の愛人の一人。

 その威光が、あの車争いの一件で、大きく傷ついたのだ。

 そうでなくても、わたくしはとうに若い盛りを過ぎている。これから坊やの愛着が薄れることはあっても、増すことはない。

 また、坊やがわたくしに会いに来ていた動機の中には、女盛りの中将に対する色気や、わたくしの娘に対する好奇心が混じっているのもわかっていた。

 本当ならば、わたくしよりも娘の方が、源氏の君にはふさわしい年頃。斎宮にしてしまい、草深い神域に埋もれさせてしまうには惜しい美しさ、清らかさを備えた姫に育っている。もしも坊やに見せたら、小躍りして喜び、夢中になって口説くに違いない。

 それがわかっていて、なお、娘を子供だと言い張ってきた、わたくしの無駄なあがき。

 灯火や化粧を工夫し、華やかな香を焚き、衣装にも派手な色目を選び、少しでも若く見せようとしてきた、虚しい努力の日々。

 もう、ここらできっぱり気持ちを変えたい。都にいて、惨めな自分を持て余すよりも、清浄な神域に入り、娘と共に祈りの日々を過ごす方が、どれだけよいか。

「天下の貴公子が、何を慌てていらっしゃるの。あなたのお相手になる女人は、他にも大勢いるではありませんか」

 わたくしが優しく言うと、先帝に溺愛された御子は、青ざめた顔の中で、目ばかり光らせて詰め寄ってくる。

「わざと意地悪を言われているんですね。わたしにご不満があるのはわかります。でも、あなたとは古い付き合いじゃありませんか。ご不満は何でも、言って下さればいい。そうすれば、できることは何でもします」

 わたくしは笑った。

 たぶん、はっきり言ってやるのが、最後の親切。

「でも、わたくしと結婚するつもりはない。車争いの件について、左大臣家に正式に抗議して下さることもない。自分が会いたい時に、甘えに来るだけ。そうでしょう?」

 坊やは木彫りの人形のように、堅くこわばってしまった。わたくしが本気でいることが、ようやくわかったらしい。

 身を捨てて得た、ささやかな勝利。それを貴重な美酒のように味わいながら、

「あなたのことは、変わらず好きですわ」

 と声を優しくして言った。

「わたくしの可愛い坊やですもの。でも、もう生臭い世界からは離れたいのです。そういう年になったのですわ」

 坊やはしばらく言い訳を探しているようだったけれど、やがてあきらめたらしく、がくりとうなだれた。

「わたしに、見切りをつけたということですね」

 その通りだけれど、そうはむきつけに言わないのが、教養というもの。

「年齢のせいですわ。あなたもいずれ、欲に惑わされない静かな暮らしがしたい、と思うようになるのではないかしら。その時はまた、花につけ紅葉につけ、季節の便りを下さればよいのですわ。風雅の友としてなら、いつまでもお付き合いできますもの」

 下を向いたまま、坊やは苦笑したらしい。

「風雅の友、ね」

 この坊やがそんな境地に至るのは、おそらく、遠い先のことだろう。たくさん傷つけ、自分も傷つき、後悔にまみれてからのこと。

 わたくしだって、まだ枯れきっているわけではない。生々しくうずくものはある。でも、それに振り回されることには、もう疲れた。優しさというものは、人に注ぎ続けるだけでは自分が涸れてしまう。相手からも注いでもらわなくては、続かないのだ。

「伊勢から、お手紙を参らせますわ。遠く離れて交わす文の方が、なお情趣があるというもの」

「情趣?」

「男と女でなくなっても、友情は残りますわ」

 でもそれは、若い男には理解できないことらしい。女と付き合うのは愛欲のため。それ以外は時間の無駄、仕事でもした方がまし、という感覚なのだろう。

「わかりました」

 坊やはすっくと立ち上がった。驚きと後悔、罪悪感が消化しきれず、そのまま怒りに転じたのだろう。自棄のような勢いで言い捨てる。

「みっともなく泣きすがって、お引き留めするようなことはしません。これまでのご厚情に感謝します。どうか、お元気で」

 そして、足音も荒く立ち去っていく。

「まあ、光君さま、もうお帰りですの」

「お酒の支度をしておりますのに」

「お供の方たちも、まだ夜食の最中ですのよ」

 驚いた女房たちが、慌ただしく追っていく気配。それが遠ざかる。

 わたくしは脇息きょうそくに寄りかかり、ため息をついた。これで終わりだという寂しさと、よくぞ別れを告げたという、自尊心の慰め。

 これでよかったのだ。坊やのお守りは、もっと若い女がしてくれればよい。強くて賢く、優しい女に守ってもらえば、坊やも幸せになれるだろう。

 もっとも、そんなできた女が、この甘えたがりの坊やを本気で愛してくれるかどうかは、はなはだ怪しいと思うけれど。

 たぶん、仕方がないのだ。若くて美しく、才に恵まれた貴公子が、女を甘く見て、傲慢になるのは当たり前。何度も痛い思いをし、傷ついて疲れ果て、それでようやく、少しはましな大人になるものだろう。

 わたくしだって、若い頃は傲慢だった。自分の美貌と才知があれば、どんなにでも幸せになれると思っていた。

 それが、愛した人を病で失った時に、まず、叩きのめされた。人の命など、はかないもの。愛する者も、自分自身も、いつまでこの世にいられるか、わかりはしない。死別の前に娘を授かったのが、せめてもの幸運。

 何年かは泣き暮らしたけれど、やがて、心が静まってきた。

 娘の成長を見守り、季節の移ろいを愛でられる幸せ。

 帝の后として宮中に君臨するよりも、かえってよかったかもしれない、と思えるようになった。それはおそらく、ずいぶんと気の張る、不自由な立場であろうから。

 それからは、暮らしに困らないだけの財産があるのを幸いとし、残りの日々を楽しく過ごせば、それでいいと思い定めてきた。そして、この六条邸の主として、忘れ形見の娘を育てながら、華やかな日々を過ごしてきた。大勢の客をもてなし、季節ごとの宴を開き、若い貴公子との浮名も流して。

 そういう日々に、まるきり未練がないと言えば嘘になる。本当は、坊やが泣いてすがって引き留めてくれることを、少しは期待していた。でも、それでは結局、悪あがきになるだけのこと。

 まだ誇りと美しさが残っているうちに、きれいに別れるべきなのだ。それでこそ、『当代最高の貴婦人』というものではないか。

 わたくしのその姿がまた、娘への教育になるだろう。

 男を愛するのはよいが、溺れてはならない。この世はとにかく、女が生きにくいようにできている。だからこそ、女は強く、誇り高くあらねばならないのだ。

 ***

「――お母さま」

 ひょっこり御簾みすから覗いた悪戯な顔に、わたくしは驚いた。

「まあ、あなたという人は。また抜け出してきたのですか」

 新たな斎宮として潔斎中の一人娘が、またしても、お使いの女房のふりをして、こっそり野宮を出てきたのだった。これまでにも、幾度かしでかしたことではあるけれど、よりによって、わたくしが坊やと決別した晩に。

「ごめんなさい。でも、まだ運びたいものがあって」

 と若い顔が照れ笑いする。

「一度、伊勢へ行ってしまったら、もう二度と戻れないかもしれないんですもの」

 この娘なりに、斎宮のお務めのことは真剣に考えているのだけれど、そこはやはり若い娘。溜め込んだ漢籍かんせきだけでなく、お気に入りの冊子そうしや絵巻物も持って行きたいし、新しい物語も手に入れたい。お友達と文通するための、洒落た料紙も欲しい。我が家の料理人の料理も味わいたい。あれやこれやで、密かに実家へ戻ってきては、息抜きしていくのである。それをきつく叱らないわたくしも、甘いのだけれど。

 このわたくしでさえ、都を離れると思うと未練が残るのだから、まして若い娘では、

(今のうちに少しでも、自由な空気を吸っておかなくちゃ)

 と思うのは無理もない。いずれ出立の時までは、大目に見ようとわたくしは思っていた。

(あたら花の盛りを、いつまでという期限もわからず、神に仕えて過ごすとは)

 という哀れさもある。

 ただ、それはまたそれで、いい人生かもしれない。男を愛し、そのために不安に揺れ、嫉妬に苦しめられるのも悪くはないけれど、あえて娘に勧めたいことでもない。清らかなまま、神に仕えて穏やかに老いていくのも、決して虚しいことではあるまい。

 身分のある女の場合、ふさわしい殿方がいない時は、無理に結婚などしない方がいいのだ。生きていくのに困らない財産があるのなら、何もわざわざ、余分な苦労を背負い込む必要はない。

 おそらくは、正妻である葵の上もまた、長年、坊やの身勝手に苦しんでいたのだろう。

 わたくしの姫が、男に関わらない人生を送れるとしたら、それは、願ってもない僥倖なのではないだろうか。

「わかっていますよ。欲しいものは、今のうち何でも注文しておきなさい」

 と苦笑して言った。伊勢の斎宮でも不自由はしないはずだけれど、細かい注文が必要なものは、都にいるうちの方がいい。姫は明るく微笑んだ。

「ありがとう、お母さま。いま、甘葛あまずらをかけた芋粥いもがゆを用意させていますの。ここに運ばせますから、一緒にいただきましょう。それから、久しぶりに貝合わせでもしませんか。それとも、何かを賭けて碁の勝負がいいかしら」

 この子はもしや、わたくしが光君と別れ話をしたことを知っているのかもしれない、と感じた。それとなく、慰めているつもりなのかも。

(いい年をして、娘にいたわられるなんて)

 とは思ったけれど、やはり嬉しかった。今夜は一人でいるより、みんなで甘いものでも食べて、賑やかに騒いだ方がいい。琵琶、琴、笛、お酒に双六すごろく、何でもあり。

 恋が終わっても、人生は続く。

 この娘がいる限り、わたくしは母として生きられる。

 坊やは今頃、わたくしを恨んでいるかもしれないけれど。それは、あなたが悪いのよ。女に対して、あまりにも傲慢すぎるから。

 いえ、そうではないわね。何年もずるずる無駄に期待し続けた、わたくしの弱さ。

 一度でいいから、結婚をねだられてみたかった。葵の上が亡くなっても、正妻にと望んではもらえないとわかって、ようやくあきらめがつけられただけ。

 もしも坊やが、自邸に引き取った娘を正式の妻にするのなら、二の次にされたわたくしの屈辱は、都中に広まってしまう。そんなことになる前に、遠い伊勢へ去っている方がいい。それならば、わたくしの方から別れを告げたのだということが、世間にはっきりわかるでしょうから。

  『紫の姫の物語』6に続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?