恋愛SF『レディランサー アグライア編』2章
2章 カティ
「ふええん」
どこかで、子供の泣き声がした。わたしはつい、あたりを見回してしまう。誰か、助けを求めている子供がいるの。
「お兄ちゃんのばかあ」
「何だよ、泣くなよ。返すよ、ほら」
噴水の横で、幼い兄妹が喧嘩していた。どうやら兄が、幼い妹のぬいぐるみを取り上げたらしい。妹は、戻されたぬいぐるみを抱えたまま、じたばた転がって泣いている。いったん泣きだしたら、勢いがつくのだろう。
「あらあら、ちゃんと見ててって言ったでしょう」
若い母親が用事から戻ってきて、娘を抱き上げる。
「さ、帰るわよ。いつまでも泣かないの」
「だって、お兄ちゃんがねえ」
「謝っただろ。いじめてないよ」
微笑ましく言い合いしながら遠ざかる親子を、わたしは、うすら寒い思いで見送っていた。幸せな光景を見ると、自分の神経がささくれ、ひきつるのがわかる。きっと、夜叉の顔になっている。
――わたしだって、いい母親になるわ。妊娠させてくれる人がいたら。
ずっと、そう思い続けてきた。
でも、いない。
世界の半分は男性なのに、わたしが愛せる人はいない。
今度の誕生日で、三十五歳。もう、若い女とはいえない。すぐに四十になってしまう。その先は更年期。砂時計の砂が、みるまに落ちていく。
このまま一人で老いていくなんて、何の罰なの!?
祖父母も両親も兄夫婦も、わたしが心の病気だと思っている。だから、腫れ物に触るように扱い、昔のことは口にしない。アンヌ・マリーの持ち物は、みんなどこかに片付けてしまった。
わたしもまた、滅多に郷里には帰らない。家族や親戚に優しく気を遣われていると、感謝するより先に、苛々してしまう。
招待されて、友達の家を訪ねるのも辛い。みんな、当たり前に結婚して、家庭を築いているのに、わたしだけ、何をしているの!?
努力はした。お見合いもしたし、パーティにも出た。紹介された人とは、必ずデートした。
でも、だめ。
他の男性に触られると、我慢できない。震えが走ってしまう。
わたしは、アレンでないと。
忘れろと言われても、少女時代を丸々、なかったことにはできない。双子の妹の存在は、鏡を見る度に蘇る。
アンヌ・マリー。
一卵性の双子でありながら、性格はわたしと正反対。わたしは静かに読書や手芸をしているのが好きだったのに、あの子はいつも活発で積極的で、トラブルの元だった。
少女時代を通して、ことごとく張り合われ、意地悪をされ、わたしは疲れ果てた。大学に入って、別の学部に通うようになると、やっと妹と距離を取ることができて、ほっとした。
でも、まさか、あの子がアレンをさらっていくなんて。
ああ、わかっている。それは、アレンの選択。わたしの魅力が足りなかった。ただ、それだけのこと。わたしより、あの子の方が、アレンには大切な存在になってしまったのよ。
***
灰色の夕暮れ時、歩き疲れて、公園のベンチに座った。風が吹くと、ブーツの足下に、赤や黄色の落ち葉が吹き寄せられる。犬を散歩させる人、ジョギングの人が通り過ぎていく。笑いながら広場を通り抜けていくのは、パーティにでも向かうらしい若者たち。
することのない休日は長かった。買い物も虚しい。これ以上、服や宝石を買ったところで、誰に見せるの?
仕事の方がましだわ。少なくとも、仕事の時は、他人に笑顔を見せられる。余計なことを考える暇もない。
そのまま、あたりが暗くなるまで座っていた。コートを着ていても、晩秋の風は冷たい。葉を落とした梢の向こうに、明かりを灯したビル群が浮かぶ。
あそこでは、たくさんの家族連れや恋人たちが、笑いさざめいている。わたしはこのまま、一人で老いていくだけ。アレンのことを忘れない限り、先へ進めない。いつまでもぐるぐる、同じ場所を回り続ける。
――だったらもう、いっそ、市民社会を捨ててもいいじゃないの。それで、アレンの赤ちゃんが手に入るなら。
アレンだって、わたしにそのくらいの哀れみをかけてくれても、いいはずだわ。
あなたが郷里の病院に残した冷凍精子、いくらわたしが願っても、使わせてもらえないのよ。くだらない法律の壁のせいで。妻や婚約者ではないから、アレン自身の許可がないからって。
辺境に出ていって行方不明の人から、どうやって許可を取り付けろというの?
一週間前、初めて密かな接触があった時は、驚いた。辺境の違法組織はどうやって、不幸な者を探し当てるのだろう。
彼らはわたしに、アレンの精子をくれると約束した。わたしが、ジュン・ヤザキを誘拐することに手を貸せば。
反射的に拒絶したのは恐怖のためで、それからずっと、ぐずぐず迷い続けている。司法局に相談することもせず。だから、彼らはあきらめず、また接触してくるはずだ。たとえわたしが駄目でも、他の手段で誘拐を決行するだろう。彼女には、それだけの価値があるのだから。
英雄の娘。彼女自身が新たな英雄。まだ十代の少女なのに、ファンクラブまで付いている。わたしとは、何という違いだろう。わたしはどこで、人生を間違ったのか。努力家のはずなのに、〝普通〟にさえなれないなんて。
――アンヌ・マリーなら、迷わない。欲しいものは、どんな手を使ってでも奪い取る。だから、辺境でも生き延びている。
わたしはいい子ぶってばかりで、自分を汚すことができなくて、だから、こういうことになっている。
あの時、たとえ狂言自殺をしてみせてでも、アレンを引き止めればよかったのに。
『レディランサー アグライア編』3章に続く